末次村(読み)すえつぐむら

日本歴史地名大系 「末次村」の解説

末次村
すえつぐむら

島根郡に所属。中世は末次保・末次庄のうちに含まれており、堀尾吉晴による松江城築城以前は大橋おおはし川以北を村域としていたとみられる。築城に伴って当村域には末次本町・末次町などの町人町殿との町・母衣ほろ町などの侍町が形成され、城下周辺部の水田や沼沢地が飛地として残ったらしい。元和二年(一六一六)の末次郷検地帳によると、田方二一町五反余(分米三一四石余)・畑方二町余(分米一〇石余)・古新田四町四反余(分米四八石余)、屋敷数一七。


末次村
すえつぐむら

[現在地名]田主丸町長栖ながす

坂井さかい村の西に位置し、西は上古賀かみこが(現吉井町)。屋敷地は美津留みつる川と古賀津留こがつる溝の間にあり、耕地坂井村千代久ちよひさ村、今泉いまいずみ(現吉井町)と入組む(上三郡絵図)。本高は八二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高二二八石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦八石五斗余・小麦四石六斗余・菜種二石三斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二二八石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では開田一町余・本畑田九町七反余・畑田四反余・畑四町八反余・居屋敷二反余。


末次村
すえつぐむら

[現在地名]佐賀市本庄町ほんじようまち大字末次

佐賀城の南にある堀の多い水田地帯で、東は八田江はつたえ、北はふくろ村、西は満穴みつあな村や鹿子かのこ村に接し、南は下古賀しもこが(現佐賀郡東与賀町)に接し、かなり規模の大きい村である。文化一四年(一八一七)の郷村帳には末次東分すえつぐひがしぶん村が中島・西八田を含んで記されている。この東分村が末次村らしく、西分にしぶん村には満穴・古賀が記されている。

もともとみず城に近く、水ヶ江竜造寺家の流れをくむ多久家の所領であったが、慶長一六年(一六一一)に所領の三割を本藩に献上するいわゆる三部上地によって、城下に近い袋・木原きはらなどの村々とともに本藩の蔵入地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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