坂井村(読み)さかのいむら

日本歴史地名大系 「坂井村」の解説

坂井村
さかのいむら

[現在地名]茂木町坂井

藤縄ふじなわ村の西、坂井川中流域に位置し、集落は同川と背後の丘陵地にかみ・中・下・きた田谷たやの五組に分れる。地名は坂の下に今も残る井戸にちなむという。中世には坂井郷が成立、建久三年(一一九二)に筑後守知家が拝領し、承久四年(一二二二)茂木知基から子息知宣に譲られて以後、応永一一年(一四〇四)に知清より知政に譲られるまで、代々の茂木氏嫡流に相伝された(承久四年二月二一日「茂木知基譲状与」茂木文書など、以下同文書は省略)。正嘉二年(一二五八)一二月二日の将軍家政所下文までには「東真壁郡内」、嘉元元年(一三〇三)一一月二六日の心仏茂木知盛譲状写には「茂木郡内」、建武四年(一三三七)七月三日の足利直義下文には「茂木保内」、文和二年(一三五三)六月一〇日の明阿茂木知貞譲状写には「茂木郡東西内」、至徳元年(一三八四)一二月一三日の茂木朝音譲状写から以後は「茂木庄東西内」と所在が記される。


坂井村
さかいむら

[現在地名]中種子町坂井

油久ゆく村の南に位置し、南は島間しまま村・中之なかの村・平山ひらやま(現南種子町)、東は海(太平洋)、西も海(東シナ海)に面する。村域は東西二里一〇町・南北二九町三〇間。仮屋元のほかに中目なかめ熊野くまの浦・中田なかだ阿嶽あだけ塩屋・屋久津やくつ塩屋・梶潟かじがた塩屋などの里があった(種子島記)。元禄二年(一六八九)の「懐中島記」では高六四七石余、男女三七七、うち給人六九、牛馬一二二。延享(一七四四―四八)頃の高六九〇石余(三州御治世要覧)、化政期の高七二二石余、竈数一〇六、総人躰六七五、うち郷士四〇・足軽二五〇・在郷二四一・水手八五・塩屋五九(種子島記)


坂井村
さかいむら

面積:三七・八七平方キロ

東筑摩郡の北端に位置する。南西に四阿屋あずまや(一三八七メートル)、北東に冠着かむりき(一二五二・二メートル)、東に大林おおばやし(一三三〇メートル)に囲まれた山間の村で、麻績おみ川の上流である安坂あざか川と永井ながい川の流域に沿い、谷は西方に開けて広い平地をもっている。北は埴科はにしな戸倉とぐら町、東は更級さらしな上山田かみやまだ町・上田市、南は小県ちいさがた青木あおき村・東筑摩郡本城ほんじよう村、西は麻績村に接する。


坂井村
さかいむら

[現在地名]見附市坂井町・坂井町一丁目・いま町七丁目

釈迦塚しやかづか新田の南。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に河野弥左衛門尉分として「出雲田庄境村」とみえる。年不詳の新発田領村々開発録(釈迦塚区有文書)によると文明一〇年(一四七八)の開発と伝え、「弥八郎先祖弥右衛門跡弥兵衛弥助長吉六助切立ニ家屋敷田畑共不残自分持相続」と記す。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)にも「境村」とみえ、三八一石五斗余。


坂井村
さかいむら

[現在地名]各務原市蘇原坂井町そはらさかいちよう蘇原新生町そはらしんせいちよう蘇原和合町そはらわごうちよう蘇原中央町そはらちゆうおうちよう各務西町かかみにしまちなど

西流するさかい川と各務山の間に位置し、北東の須衛すえ村から南流する丁田ちようだ川に木無きなし井堰がある。各務郡に属し、西は東島ひがしじま村。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野口村野帳(安積文書)に「さかい」、慶長六年(一六〇一)の彦坂元正等連署知行目録(菅沼文書)に「七拾九石八斗弐升 さか井村」とみえる。同年菅沼定仍(伊勢長島藩)領となるが、元和七年(一六二一)より幕府領となり、幕末に至る。


坂井村
さかいむら

[現在地名]相良町片浜かたはま

平田ひらた村の北に位置し、牧之原まきのはら台地の南東端に立地する。東は駿河湾に面し、北は法京ほうきよう村。田沼たぬま街道が南北に貫通する。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高四六石余。正保郷帳では田方三六石余・畑方一〇石余、幕府領。元禄郷帳では高六六石余。国立史料館本元禄郷帳では駿河田中藩領。宝永七年(一七一〇)相良藩領(正徳二年本多忠晴領知目録、寛延四年本多忠央領知目録など)、その後幕府領となるが、寛政六年(一七九四)三卿の一橋領(同年一橋家領郷村高帳写など)、文政六年(一八二三)相良藩領となり幕末に至る(旧高旧領取調帳など)


坂井村
さかいむら

[現在地名]黒川村坂井

櫛形くしがた山脈の東麓にあり、小国谷沢おぐにたにざわ川・先納沢せんのうざわ川・中沢なかさわ川・南俣みなまた川の四沢が合流して坂井川となり、村内を南流して加治かじ川に注ぐ。南俣・谷地やちの枝郷がある。北は鼓岡つづみおか村、東は熱田坂あつたざか村に接する。村名は中世の加地かじ庄と奥山おくやま庄の境であったことに由来するともいわれる。正保国絵図に村名がみえ、高二〇〇石余。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領、文政七年(一八二四)武蔵忍藩預所。承応二年(一六五三)の割付状(坂上文書)には本田分高三四九石一斗三升二合、取米九九石二斗余・口米一石九斗余とある。万治二年(一六五九)の検地帳(同文書)によれば高三七四石七升余・田畑三八町六反五畝余、うち屋敷は八反六畝余で名請人二〇名。


坂井村
さかいむら

[現在地名]甘木市福光ふくみつ

城力じようりき村の西、かつら川下流域の平野部に位置する。下座げざ郡に属し、北は桑原くわばら村。古くは酒井とも書き、江戸時代を通じて福岡藩領。明徳三年(一三九二)一二月一八日の筑前下座郡納帳目録(阿蘇家文書/南北朝遺文(九州編)六)に「酒井名」とみえ、阿蘇あそ(現熊本県一の宮町)大宮司の阿蘇氏惣領の所領と思われる当地などで、同年検見が行われ、一〇町一反半の田地に年貢米は五斗と定められた。なお一四世紀後半、将軍足利義満の代には太宰府天満宮宮師坊(満盛院)領として「酒井拾町」があったといい(年月日未詳「太宰府天満宮宮師坊領目録案」満盛院文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)、また一六世紀前半、将軍足利義晴から酒井名などが満盛まんじよう(現太宰府市)に引渡されている(七月一三日「足利義晴御内書案」同上)


坂井村
さかいむら

[現在地名]海南市阪井さかい

日方ひかた川の谷と貴志きし川の谷の間の鞍部に位置し、村の中央をかめの川が西北に流れる。貴志川は当村の東で北に向きを変え、日方川は南部山岳より北流し、西南隣の重根しこねで西に向きを変える。このように坂井村付近で三河川が接近するため、古来流路の変動があったと考えられる。名草なくさ郡の東端にあたり、東は那賀なが沖野々おきのの木津きづの両村、北は小野田おのだ村。なお亀の川の南側には溜池が多い。


坂井村
さかいむら

[現在地名]韮崎市藤井町坂井ふじいまちさかい

北下条きたげじよう村の北に位置し、村域は七里岩しちりいわ台地上を中心とし、しお川右岸の氾濫原の一部に及ぶ。甲州道中はら路が通り、北は駒井こまい村。境村とも記し、集落は初め氾濫原上に発達したが、のち水害により台地上に移ったと伝える。天文一二年(一五四三)五月吉日の年紀のある現円野町下円井の宇波刀まるのまちしもつぶらいのうわと神社の随身像の銘文に「藤井保之内境村住人小沢宮内右衛門尉久吉内方」とみえる。


坂井村
さかいむら

[現在地名]桑名市坂井

現桑名市の南西部にあり、赤尾あこお村の東北に位置する。北は員弁いなべ川に臨む。員弁郡と桑名郡との境界にある。「外宮神領目録」に「中河御厨一石五斗」とあり、中河御厨なかがわみくりや神明社がある。また小字名に神戸ごうどの地名がある。「員弁雑志」には中世城跡として「勢陽雑記拾遺追加坂井城ハ片岡ト云者長島一揆ニ与力シ楯籠リシカ柴田滝川カ手イタク攻故逐電スト云々」とあるが、城跡など不詳である。織田信雄分限帳には「百五拾貫文 いなへさかいノ郷 青木孫作」とある。

江戸時代の前期・中期は桑名藩領、文政六年(一八二三)武蔵おし(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)信楽しがらき(現滋賀県)代官支配の幕府領、次いで嘉永元年(一八四八)笠松かさまつ(現岐阜県)郡代所管、同七年再び忍藩領に復する。


坂井村
さかいむら

[現在地名]新潟市坂井・坂井一―三丁目・坂井東さかいひがし一―六丁目・小針こばり八丁目・寺尾東てらおひがし一―三丁目・寺尾上てらおかみ三―六丁目

西にし川左岸に沿い、東は小針村、西は大野郷屋おおのごや村、北は寺尾新田村。元禄郷帳には五十嵐浜いからしはま枝郷とあり、高五五四石一斗余。安永二年(一七七三)の坂井組割付帳(吉田ツタ氏蔵)では本田高は同じで、新田高三二一石七斗余のほかに延宝二年(一六七四)から正徳元年(一七一一)までに検地を受けた新田高一一〇石四斗とみえる。近世期、西川舟運の船着場・郷蔵が置かれ、また「温古之栞」では、寛政三年(一七九一)当時、渡場があったとされる。


坂井村
さかいむら

[現在地名]南陽市坂井

吉野よしの川扇状地の扇端に近い上無かみなし(高松川)左岸に位置。西につづく関根せきね村と北部の法師柳ほうしやなぎ村を含めて高松たかまつ郷とよばれていた時代があり(沖郷村史)法師柳村との境界に小字名として高松の地名が残る。伝説に高松川岸辺の清水をくみ、これを泉源寺の如来に供え参詣者が飲んだところ、酒の香りがしたので酒井と名付け、いつの頃からか坂井に改めたという(同書)。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一八一石余、免一ツ八分、家数八(うち役家二・肝煎一)、人数四〇。蒲生氏高目録帳では村柄は下。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣が五名いる。上杉領村目録によると高三二七石余、本免二ツ。反別は田一五町三反余・畑一〇町七反余(天明七年改)、家数一八・人数一二五、馬一二。


坂井村
さかいむら

[現在地名]常滑市坂井

北は小鈴谷こすがや村・広目ひろめ村に接する。地名は古代冨具ふぐ郷と贄代にえしろ郷の境の地に由来するという(知多郡史)。当村の氏神が江戸時代は上野間かみのま(現知多郡美浜町)松尾まつお神社であったことから上野間村の支郷として発達したと考えられる(常滑市誌)。「寛文覚書」によると、概高七三一石余、田三五町九反五畝余・畑四町三反六畝余、家数五七、人数四九五。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によると、元和六年(一六二〇)市辺出羽守の給知であった。のち全村蔵入地。

「徇行記」は「専ラ農ヲ勉ル。家ハ七十戸ホトアリテ、高ニ准シテハ佃力不足セリ。此外酒屋三戸アリ。又船カセキヲスル者モアリテ、波不知いさば船四十石積二艘、二十石積一艘アリ。


坂井村
さかいむら

[現在地名]丸子町大字塩川しおがわ

依田窪よだくぼの北東部塩川郷(旧塩川村一帯)のうち、千曲川沿いの段丘上、佐久道(現県道芦田―大屋線)に沿った村。南は条里的遺構を残す水田地帯が広がる。東は羽毛山はけやま村(現北佐久郡北御牧きたみまき村)、西は狐塚きつねづか村、南は南方みなみがた村、北は千曲川の対岸本海野もとうんの(現東部町)と接する。

元禄一五年(一七〇二)信濃国郷帳に「塩川坂井村」とあるが、慶安元年(一六四八)の信州佐久郡小県郡之内小諸領郷村帳(依田文書)には記載されてないから、その間に塩川村から分村したと考えられる。


坂井村
さかいむら

[現在地名]館山市坂井

布沼めぬま村の西に位置し、南は平砂へいさ浦に臨む。酒井村とも書いた。当地には翁作おきなさく古墳や鏡・玉類が出土した横穴墓があり、古代安房郡麻原おはら(和名抄)を地内の小原こばらに比定する説がある。西作にしさくには五輪塔を納めたやぐらがある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一〇一石余(うち田二九石余)。同一五年の里見家分限帳によると台所奉行並勘定頭の横小路将監の給知。正保郷帳では酒井村とみえ、田高四八石余・畑高七三石余、旗本酒井領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳でも同領。天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となる(同一四年忍藩領郷村高帳)


坂井村
さかいむら

[現在地名]久美浜町字坂井

川上かわかみ谷の西側、久美浜街道に沿って集落をつくる。東は橋爪はしづめ村に接し、南に位置する友重ともしげ村とはきわめて複雑な境界で接する。

慶長検地郷村帳に高二一九・一四石「堺村」とあるが、延宝三年郷村帳では「坂井村」と表記される。延宝九年(一六八一)の延高で二三八石余となった(天和元年宮津領村高帳)

小字永助ながすけみささぎ神社の伝えによると、往古海士あまから神社への道があり、海士の海部直の子孫は代々祝を職とし、当社に奉仕してきたという(熊野郡誌)


坂井村
さかいむら

[現在地名]大牟田市岩本いわもと

下内しもうち村の南東、白銀しらがね川左岸にあり、南に上徳うわとこ山を望む。天文一九年(一五五〇)頃のものと推定される年月日欠の三池氏等知行坪付(田尻家文書/佐賀県史料集成七)には、田尻氏知行分の村付のうちに「さかい」六町がみえる。おそらくこの年菊池氏に従って大友方と戦い敗れた三池親員の闕所地で、田尻親種に加増されたものであろう。天正七年(一五七九)親種の子鑑種は龍造寺隆信に属し、同年六月一日岡堺おかさかい八町を与えられている(「龍造寺隆信・同鎮賢連署判物」同上)。いっぽう自最前至鎮並申合候村付(田尻家譜/大和町史資料編)のうちには「おか」四町・「さか井」四町が別々に記される。


坂井村
さかいむら

[現在地名]下妻市坂井

小貝こかい川右岸の低地にあり、北西は大串おおくし村。弘長三年(一二六三)の恵信尼書状(本願寺文書)に「さてひたちのしもつまと申候ところに、さかいのかうと申ところに候しとき」とあり、親鸞とその妻恵信尼が当地に居住していた。また永享七年(一四三五)八月九日の富有注文(続常陸遺文)に「下妻庄内、幸井郷 善妙入道 建長寺領」とある幸井郷は当地に比定されている(新編常陸国誌)。のち多賀谷氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)天領となるが、その後旗本領となる。


坂井村
さかいむら

[現在地名]羽島市足近町坂井あぢかちようさかい

東小熊ひがしおぐま村の東、さかい川南岸に位置する足近輪中内の村。「濃州徇行記」に「此村は美濃路往還筋の西傍にあり、(中略)農事のみを渡世とす、往還筋に少し出町あり」と記される。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)に「さかい村」とみえる。慶長郷帳には境村とあり、高一一九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には「さか井村」とみえ、稲葉正成(十七条藩)領。同五年尾張藩領となり(明暦覚書)、幕末に至る。


坂井村
さかいむら

[現在地名]飯山市大字坂井

千曲川の自然堤に沿って発達した集落で、東より南にかけ天神堂てんじんどう下木島しもきじま、西は野坂田のさかだに接し、北は千曲川の沖積地が広く展開している。

村は土地低平のため千曲川・たる川の洪水との闘いに明け暮れた。もと村高は六六三石九斗七升七合であったが、連年の水害で正保三年(一六四六)には五六八石七斗八升九合に減じ、特に延宝初年の川欠けで村の中央(現在の観音堂裏)が千曲川の本流と化し、延宝六年(一六七八)には石高三六石余になった(「坂井村年貢皆済目録」小林作治氏蔵)


坂井村
さかいむら

[現在地名]三条市下坂井しもさかい三竹さんちく一丁目・北中きたなか東三条ひがしさんじよう一―二丁目・田島たじま二丁目

入蔵にゆうぐら村の南西、五十嵐いからし川右岸にあり、東は三竹村に接する。戦国末期から近世初期に成立した村とみられ、元和六年(一六二〇)三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)には「(ママ)井かうや」とあり、高五九石四斗余。同九年幕府領となり、正保国絵図に高二一〇石余。慶安二年(一六四九)村上藩領となり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では二一二石八斗余。


坂井村
さかいむら

[現在地名]田主丸町長栖ながす

末次すえつぐ村の東に位置し、北は今泉いまいずみ(現吉井町)。本高は四四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四〇石・役高二二〇石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦八石三斗余・小麦四石五斗余・菜種二石二斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二二〇石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では開田二反余・本畑田九町八反余・畑田四反余・畑六町余・居屋敷二反余。


坂井村
さかいむら

[現在地名]度会町坂井

宮川左岸、長原ながはら村上流にある。国束くづか山地の西端にあたる。西は宮川の断崖で対岸は麻加江まかえ村。南北に相鹿瀬おうかせ(現多気郡多気町)に至る道が通じる。旧度会郡と多気郡の境界からきた地名であろうか。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「坂井村」と記される。慶安郷帳(明大刑博蔵)では田方三六石余・畠方六五石八斗。


坂井村
さかいむら

[現在地名]板倉町坂井

別所べつしよ川が村内を北流し、東は長塚ながつか村、西は高野たかの村に接する。正保国絵図に高一二〇石余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(坂井区有文書)によれば高八〇石余、田四町六反余・畑二町七反余、除地として天神境内一畝二四歩をはじめ観音堂・十二神宮・地蔵堂の境内があげられ、家数五。


坂井村
さかいむら

[現在地名]瑞穂町字坂井

井尻いじり村の北西にあり、井尻川が村の中央部を北西に流れ、福知山―京街道が平行する。川沿い部分だけが低平で耕地があり、北と南は山地である。東は井脇いわき村、西は水原みわら村、北は深い山地を越えて三之宮さんのみや村。旧高旧領取調帳によると旗本柴田七九郎の知行地。


坂井村
さかいむら

[現在地名]加古川市野口町坂井のぐちちようさかい

古大内ふるおうち村の南に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方二三三石余・畑方五石余。天和二年(一六八二)の免状(明治大学刑事博物館蔵)では高二九一石余、免五ツ八分とある。


坂井村
さかいむら

[現在地名]佐賀市鍋島町なべしままち大字八戸やえ字坂井

「境」とも書く。八戸村と深町ふかまち村に囲まれた南北に長い小さな村。文化一四年(一八一七)の郷村帳では「境村 但八戸東分之内」と注記されている。


坂井村
さかいむら

[現在地名]川副町大字南里なんり字坂井

南里村の東南に位置する。正保絵図に村名がみえる。天保九年(一八三八)の御蔵入郷村付によると坂井村三九四石とみえ、村のほとんどが蔵入地(直轄地)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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