本因坊秀和(読み)ほんいんぼう・しゅうわ

朝日日本歴史人物事典 「本因坊秀和」の解説

本因坊秀和

没年:明治6.7.2(1873)
生年:文政3(1820)
幕末明治期の囲碁棋士,14世本因坊伊豆田方郡(静岡県)生まれ。本姓土屋,幼名俊平,恒太郎。文政11(1828)年,本因坊丈和入門。進歩著しく天保11(1840)年七段で13世本因坊丈策の跡目となった。名人碁所をめぐって師丈和と井上因碩(幻庵)との確執があり,同10年丈和は退隠。その機に因碩が名人碁所を望んだ。坊門異議を唱え同11年因碩と秀和の間で争碁が始まった。第1局で秀和が勝ち,因碩は名人願書を取り下げた。弘化4(1847)年丈策が病死,翌年14世本因坊。門下から秀策,秀甫など俊秀が出たが,江戸から明治への時代の変革の中で家禄奉還などにあい晩年は不遇だった。<参考文献>杉内雅男『秀和』(日本囲碁大系),荒木直躬『本因坊秀和全集』(歴代名人打碁大系)

(谷口牧夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本因坊秀和」の意味・わかりやすい解説

本因坊秀和
ほんいんぼうしゅうわ

[生]文政3(1820).下田
[没]1873.7.2. 東京
囲碁準名人。本姓土屋。 12世本因坊丈和の門下。天保 11 (1840) 年,13世本因坊丈策の跡目となり,先師丈和の命によって 11世井上因碩 (幻庵) の名人碁所出願に対して争碁 (あらそいご) を打ち断念させた。弘化4 (47) 年,家督を相続,14世本因坊となる。その頃から幕末の碁界に君臨,名人碁所出願をしたが,井上家の怨念と幕末の不安定な世情によって望みを果さなかった。明治初めの戸籍改正に際し,本因坊を芸名改め,戸籍名を本姓の土屋に戻した。門下に跡目秀策と村瀬秀甫 (18世本因坊) があり,長子秀悦 (15世) ,次子秀栄 (17世および 19世) ,3子秀元 (16世および 20世) はいずれも本因坊になっている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本因坊秀和」の解説

本因坊秀和 ほんいんぼう-しゅうわ

1820-1873 江戸後期-明治時代の囲碁棋士。
文政3年生まれ。本因坊丈和に入門,天保(てんぽう)11年7段で本因坊丈策の跡目となる。弘化(こうか)4年本因坊14世をつぐ。嘉永(かえい)3年準名人8段。実子の秀悦,秀栄,秀元らは本因坊になった。弟子に秀策,秀甫らがいる。明治6年7月2日死去。54歳。伊豆(いず)君沢郡(静岡県)出身。本名は土屋恒太郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の本因坊秀和の言及

【本因坊】より

…1828年(文政11)準名人となり,11歳年上の12世本因坊丈和と,はげしい盤上盤外の戦いを繰り広げたことで有名。39年(天保10)丈和引退にあたり名人碁所を望んだが,14世本因坊秀和の堅い先番に敗れて涙をのんだ。碁風は策に富み,豪放絢爛(けんらん)たるものがあった。…

※「本因坊秀和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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