日本歴史地名大系 「本渡市」の解説 本渡市ほんどし 面積:一四四・九一平方キロ県の南西に位置し、天草島全体のほぼ中央を占める。市域は有明海・八代海(不知火海)・天草灘に囲まれた下(しも)島東部と上(かみ)島の西部にまたがる。現在上下両島は瀬戸(せど)大橋によって結ばれている。市域の大半は下島に立地し、北は天草郡五和(いつわ)町、西は柱(はしら)岳(五一七・七メートル)・角(かど)山(五二五・九メートル)・矢筈(やはん)岳(四八〇・六メートル)を境に天草郡苓北(れいほく)・天草・河浦(かわうら)の各町に、南は同郡新和(しんわ)町に接する。全体に急傾斜地が多く、平野部に乏しい。広瀬(ひろせ)川・町山口(まちやまぐち)川・亀(かめ)川・方原(ほうばる)川が東流して有明海に注ぎ、本渡港付近に幕末―明治以降からの干拓・埋立による市街地が広がる。市名の本渡は古くは「本砥」「本戸」と記され、貞永二年(一二三三)二月一六日付の天草種有譲状案(志岐文書)に「ほんとのしま」とみえる。〔原始・古代〕縄文早期―弥生後期の丸尾(まるお)遺跡が本渡町本戸馬場(ほんどばば)にあり、古墳時代後期の大松戸(おおまつど)古墳・須森(すもり)古墳が上島西端にみられる。下島東端にあたる本渡町広瀬に古墳時代終末期の茂木根(もぎね)横穴群がある。五世紀末―六世紀前半の妻(つま)ノ鼻(はな)墳墓群(地下式板石積石室墓)からは畿内型古墳に類似する副葬品が出土し、当地方における墳墓の地域性・時代的特色を示す。「和名抄」に記す天草郡五郷の波太(はた)・天草・志記(しき)・恵家(えや)・高屋(たかや)のうち、天草郷を当市域に比定する説もある。〔中世〕当市域の一帯から下島東南の大多尾(おおだお)・宮路(みやじ)浦(現天草郡新和町)、産(うぶ)島(現同郡河浦町)、南部の深海(ふかみ)(現牛深市)、西部の高浜(たかはま)(現天草郡天草町)に及ぶ地域は本砥島と称されていた。志岐文書によれば、同島は大宰府官人大蔵氏の一族天草種有によって開発された。貞永二年種有は本砥島地頭職を播磨局を惣領にして譲与し、各地に一族を配置した。下島北部には菊池氏の一族と称する志岐氏が割拠し、天草の中心部にあたる本砥島をめぐって天草・志岐両氏の抗争が繰返された。志岐景光は北条得宗家代官として勢力を拡大。天草氏の当主尼妙性と婚姻関係を結び、本砥島への進出を強めた。正和二年(一三一三)には景光の子景弘が本砥島地頭職に補任される。景弘はさらに惣領と称して天草氏の菩提寺である亀河の来迎(かめがわのらいごう)寺住持職を奪い、宮路浦全体の確保をめざして天草氏一族の宮地村地頭仏意との間に相論を展開した。南北朝期、志岐氏は足利方にくみし、建武四年(一三三七)高弘は一色範氏から本砥・亀河地頭職を安堵された。この頃天草氏に代わって下島南部の河内(かうち)浦(現河浦町)に割拠する天草氏分流の河内浦氏が台頭。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by