本行徳村(読み)ほんぎようとくむら

日本歴史地名大系 「本行徳村」の解説

本行徳村
ほんぎようとくむら

[現在地名]市川市本行徳・本塩ほんしお富浜とみはま一―三丁目・塩焼しおやきせきしま末広すえひろ一―二丁目・入船いりふね日之出ひので東大和田ひがしおおわだ一―二丁目・大和田おおわだ二丁目・同五丁目など

下新宿しもしんしゆく村の南、江戸川左岸に位置し、東は下妙典しもみようでん村。南は海に面し、地先の海浜塩浜となっていた。集落は南西方の欠真間かけまま村から当地まで江戸川沿いに走る佐倉道に沿って街村を形成した。同道は当地で東に折れ、下妙典村・上妙典村・船橋町などを経て佐倉・成田方面に通じていた。一方、東に折れずそのまま江戸川沿いに北上し、八幡やわた宿や市川村方面とを結ぶ道も通じており、この道は木下きおろし道とか行徳道などとよばれていた。中世には川関が設けられるなど古くから交通の要衝で、近世には河岸場(行徳河岸)が置かれて江戸(小網町の行徳河岸)との間を川船が往来、水陸交通の結節点として賑いをみせた。いわゆる行徳領諸村の中心村であった。応安五年(一三七二)一一月九日の藤氏長者宣写(香取文書)に「常陸下総両国海夫并戸崎・大堺・行徳等関務」とみえる。一宮香取社が古利根川(現在の江戸川を含む)の流路に沿って設定していた川関の一つが行徳にあり、この時期勢力を伸張させていた香取社神主大禰宜家は関務の知行を藤原氏長者二条師良から保証されている。これを受けて足利義満は同年一二月一四日に「行徳関務事」について将軍家御教書(写、同文書)を発している。至徳四年(一三八七)五月一日、大禰宜長房は譲状(同文書)をもって「しもかわへのうちひこなのせき・つるかそねのせき・きやうとくのせき」などを嫡子万寿丸に譲っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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