本郷町(読み)ほんごうまち

日本歴史地名大系 「本郷町」の解説

本郷町
ほんごうまち

[現在地名]大刀洗町本郷・栄田さかえだ

現大刀洗町域のほぼ中央、筑後川支流の小石原こいしわら川下流に位置する。南北に陣屋じんや川が貫流し、南西は小島おじま村に接する。北西部の辰口たつぐち遺跡では弥生時代から古墳時代にかけての石棺墓や円墳、温水ぬるみず遺跡では弥生時代から中世にかけての落し穴・住居跡・掘立柱建物跡などが発見された。応安五年(一三七二)一二月日の深堀時広軍忠状(深堀文書/南北朝遺文(九州編)五)に「本郷御合戦」とあり、今川了俊の軍勢が菊池武安らを攻撃した。「島津家久上京日記」天正三年(一五七五)三月二日条にみえる「三原といへる村」は当地とされ、北野天満宮(現北野町)の役所(関所)で関銭を徴収されている。三原みはら城を中心に町筋が形成されたが、廃城後も宿場として整備された。正保四年(一六四七)の大小道之帳に「本郷村」境より三里二一町余の府中ふちゆう(現久留米市)まで結ぶ大道筋、久留米より三里二四町余の「本郷町」までの横道、筑前国境の乙隈おとぐま(現小郡市)までの小道などが記される。八丁島はつちようじま(現久留米市)から上高橋かみたかはし村および当地を経て筑前秋月あきづき(現甘木市)方面に向かう街道がある(在方諸覚書)。また府中町から神代くましろ渡を越え、北野中きたのなか(現北野町)を経て当町へ至り、秋月から八丁越はつちようごえ大里だいり(現北九州市門司区)へ行く坊津ぼうのつ街道(薩摩街道・豊前街道)は延宝六年(一六七八)松崎まつざき街道(新筑前街道)開通以前の参府路で、久留米藩主有馬氏は元禄一五年(一七〇二)まで利用した。

本郷町
ほんごうちよう

[現在地名]宇都宮市泉町いずみちよう小幡おばた一丁目

奥州街道が伝馬でんま町で分岐し、北上する日光街道筋の最初の町人町。北は新田しんでん町に続く。西は小幡町の武家屋敷。古くは宇都宮城の北を流れるかま川の西側台地一帯を西原にしはら郷と称し、その本村であったので町名としたという。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に本郷町とみえる。寛文二年(一六六二)には本郷町は郷分であったが、検地を受け町分となっている。その折に「日光御成ニ付、寅年町分ニ被仰付、其節本郷町之者願ニ者、町分ニ被仰付候上者、地子御免被下候様願候所、左様ニ者難被成故、西原分免合三分ヲレニ被成下候」とあり、西原村への出作人が多い(宇都宮史)

本郷町
ほんごうちよう

面積:八二・五七平方キロ

おもに瀬戸内海沿岸を占める豊田郡のうち、内陸部にある飛地。沼田ぬた川中流域に位置し、東から南は三原市、南西は竹原市、西から北は賀茂郡河内こうち町・大和だいわ町に接する。町の中央部を北西から南東へ流れる沼田川に支流梨和なしわ川・尾原おばら川・すげ川などが合流する町の南東部を中心に、流域に低地が広がり穀倉地帯を形成。また、畠作として葉煙草の栽培がみられる。国鉄山陽本線が沼田川沿いに町内を貫通し、国道二号が沼田川・尾原川沿いの旧山陽道に沿って横断しており、交通上の要地である。

本郷町
ほんごうまち

[現在地名]会津若松市上町うわまち行仁町ぎようにんまち

竪三日たてみつか町の北に並び、東は行人ぎようにん町より西は中六日なかむいか町に至る、長さ五九間余・幅四間余、家数二六(新編会津風土記)。大沼郡本郷村(現会津本郷町)より移住したための町名という。毎月二と七の日に市が立った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報