西原村(読み)にしはらむら

日本歴史地名大系 「西原村」の解説

西原村
にしはらむら

[現在地名]宇都宮市清住きよすみ一―三丁目・泉町いずみちよう小幡おばた一―二丁目・材木町ざいもくちよう大寛だいかん一―二丁目・西原一―三丁目・花房はなぶさ一―三丁目・新町しんまち一―二丁目・さくら一―五丁目・西大寛にしだいかん一―二丁目・操町みさおちよう六道町ろくどうまち京町きようまち滝谷町たきやちよう明保野町あけぼのちよう弥生やよい一―二丁目・大和やまと三丁目・日の出ひので一―二丁目・不動前ふどうまえ一―五丁目・宮原みやはら五丁目・一条いちじよう二丁目・天神てんじん一―二丁目・御蔵町おくらまち河原町かわらまち下河原しもがわら一丁目・南大通みなみおおどおり二丁目・陽南ようなん一―二丁目・同四丁目・睦町むつみちよう滝の原たきのはら一―三丁目・西原町・住吉町すみよしちよう幸町さいわいちよう花園町はなぞのちよう菊水町きくすいちよう吉野よしの一―二丁目

北は下戸祭しもとまつり村と小幡町の組屋敷、南は江曾島えそじま村・東川田ひがしかわだ村。宇都宮城下西方の平坦な地域。天文九年(一五四〇)二月二七日の程緻充行状写(小田部庄左衛門氏所蔵文書)に「西原」とみえ、当地にある菊池分一〇貫文の地など計三九貫文の地を赤埴信濃守に与えている。宇都宮城付領分、佐野道・鹿沼道・大谷おおや道の通過村であったが、元和六年(一六二〇)本多正純が奥州街道を宇都宮城東から西部に移したことから人々の出入りが漸増した。


西原村
さいはらむら

[現在地名]上野原町西原

棡原ゆずりはら村の北西、つる川上流の山深い渓谷に位置している。北西は小菅こすげ(現小菅村)、北は武蔵国多摩郡。才原とも記した。「甲斐国志」によると、村内は「十六村六組」に分けられていたという。同書や文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)によると、一六集落とは飯尾いいお八田やつだ(八ッ田)方屋ほうや(方矢)宮原みやはら江原ごうはら(郷原)・暮下条(下城)遍盃へはい(扁盃)田和たわ上平わつたいら六藤むそうじ阿寺沢あてらざわ平野田ひらのた腰掛こしかけ藤尾ふじお初度はど(初戸・羽土)の一五集落に本村にあたるはら(平原、古くは川窪)を加えたもので、六組というのは元禄郷帳で枝郷とされている藤尾(藤尾・六藤)・羽土(初戸)・小在家(上平・田和・遍盃・下条・腰掛・平ノ田・阿寺沢)・郷原(郷原)・原(原・方屋・宮原)・飯尾(飯尾・八ッ田)の各組である。


西原村
にしはらむら

[現在地名]与那城町西原にしはら照間てるま

勝連かつれん半島のほぼ中央に位置し、南西は勝連かつちん間切南風原へーばる(現勝連町)、南は同間切平安名へんな(現同上)。当初は勝連間切に属し、康熙一五年(一六七六)西原にしはら間切、同年平田ひらた間切、同二六年からは与那城ゆなぐしく間切に属した。絵図郷村帳に西原村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭二九六石余、うち田二〇三石余・畠九三石余。里積記によれば田畑とも中の村位。勝連かつれんグスク(現勝連町)第一の城下町とされ、地名も城のニシ(北)に位置することに由来しているという。また一時期西原間切の間切番所が置かれたとされる(与那城村史)。慢性的な水不足に悩まされていたらしく、乾隆五七年(一七九二)には亭路間原の四〇石余の天水田に水を引く用水が当村および屋慶名やきな村前名嘉村親雲上・平安座ひやんざ村前池味親雲上らによって開削され(「球陽」尚温王元年条)、道光二年(一八二二)以前にも平安座村の名嘉村親雲上ら(同書尚王一九年条)、同九年には当村宮里筑登之らにより灌漑工事や水田開発が行われている(同書同王三〇年条)


西原村
にしばるむら

[現在地名]浦添市西原にしはら

浦添うらしー間切東端に位置し、宜野湾じのーん間切境は後川原くしかーばる(現比屋良川)。古くは浦添うらそえグスク北方にあったが、慶長一四年(一六〇九)の薩摩島津軍の琉球侵攻後、比屋良ひやら川近くに移転したという。また当村は棚原たなばる(現西原町)と関係が深かったと推測されている(浦添市史)。元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)に西原村がみえる。絵図郷村帳に村名がみえ、琉球国高究帳では高頭一五〇石余、うち田一一一石余・畠三九石余。順治一五年(一六五八)真喜志親雲上康盈(柳起新)が浦添間切の当村、宜野湾じのーん村・喜友名ちゆんなー(現宜野湾市)の高賦定検者に就任している(柳姓系図)。道光一〇年(一八三〇)首里系士族の麻氏支流一四世棚原親方真要(麻克昌)が棚原村から転任して当村の脇地頭となり、同一四年その孫西原里之子真起(麻為錦)が家督を継承した。


西原村
にしばらむら

[現在地名]君津市西原

山本やまもと村の南、小櫃おびつ川中流右岸に位置する。西は同川を渡り田川たがわ(現木更津市)へ通じる。近世中期以降舟運が盛んになり、新河岸が設けられている(吉田家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八一六石となっている。。元禄郷帳では高八四九石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高九三四石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本村と同様である。

寛政五年(一七九三)の村明細帳(吉田家文書)によれば高九二三石余、反別は田方五三町五反余・畑方三一町一反余、屋敷一町六反余、家数九六・人数四三九。


西原村
にしばらむら

[現在地名]淀江町西原

淀江村の西、宇田うだ川下流左岸に位置し、美保みほ湾に臨む。伯耆街道が通り、南に壺瓶つぼかめ山がある。淀江村の枝郷で、集落は延宝年間(一六七三―八一)淀江村の大垣おおがきから五戸が移住し、五軒屋ごけんやと称したのが始まりという。貞享四年(一六八七)には領内限りの一村として年貢免状も発給された(淀江町史稿)。元禄元年(一六八八)に書改められた寛永一〇年(一六三三)の淀江村西原田畑地詰帳(淀江町役場蔵)によれば、当村分の反別は田二九町二反余・畑八反余。検地役人として矢野兵庫・佐藤小左衛門・今井七兵衛の名がみえる。延宝九年の高三一〇石余(うち畑高四石余)、田三〇町一反余、物成一四五石余、免四ツ七歩(淀江町史稿)


西原村
にしはらむら

[現在地名]安佐南区祇園ぎおん町西原

南流するふる川を境に東対岸は東原ひがしはら村、北は高宮たかみや中筋古市なかすじふるいち村、南は長束ながつか村に接する。やす川は村の西寄りを南流。村は平地で山林はなく、しばしば水害を被った。「和名抄」の安芸郡幡良はら郷の地域に比定され、条里遺構は太田おおた川の旧流路を挟んで、東側は東原村、戸坂へさか(現東区)の地割と共通し、西南側は長束村の条里に共通する。

戦国時代までは東原村の地とともに「原郷」と記される場合も多かった。東西に分けてよぶ早い例は、鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に「東原村」とみえ、西原村の存在を推測させるが、この東原村を近世の東原村へ直結するにはなお検討を要する。


西原村
にしはらむら

[現在地名]平良市西原にしはら

荷川取んきやどうら村の東にあり、北西の一部は大浦うぷら湾、東部は大洋に面する。地元ではニスムラというが、項目の読みは現行行政の読みを仮に充てる。平良ぴいさら間切に属する。祭祀はウハルズ御嶽(異称ナナムイ)が中心でユークイなどの祭祀が行われている。東部のピンフんみ遺跡では外耳土器が採集され、アガイヌ御嶽・広瀬尾神崎びつしうがんざきい遺跡および東仲宗根添あがなかずうにすうい村域の石原城いさらぐすく遺跡にかけて、海岸縁の断崖では連続して土器片が採集される。これらの一帯は石原いさら間切とよばれた地域とみられ、一四、五世紀頃の遺跡と考えられる。


西原村
にしばるむら

[現在地名]大里村大里おおざと

大里うーざとう間切の東部に位置し、北は南風原ふえーばる村、東は佐敷さしち間切津波古つふあぬく(現佐敷町)、南は真境名まじきな村、西は平良てーら村。絵図郷村帳にみえる島添大里しましーうーざとう間切ぐすく村にあたる。琉球国高究帳にはなく、「琉球国由来記」に大里間切西原村とみえる。同名の城村が大宜味いぎみ間切に、西原村が豊見城とうみぐすく間切や浦添うらしー間切・与那城ゆなぐしく間切・美里んざとう間切にある。前掲高究帳では南風原村の高頭四五一石余に含まれていると思われる。


西原村
にしばらむら

[現在地名]那賀川町西原

大京原だいきようばら村の北西、那賀川河口北岸に位置する。西は古庄ふるしよう(現羽ノ浦町)、南は那賀川を挟んで柳島やなぎじま(現阿南市)。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に西原とみえる。正保国絵図によると高四八六石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三五四石余・畑方一三一石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高三九〇石余。


西原村
にしばらむら

[現在地名]綾部市西原町

由良川右岸の段丘に広がる。山家やまがの西半地域。近年この段丘で旧石器(円盤状石器・尖頭器)が発見されている。また古墳(二基)や窯跡などがある。

対岸の上原かんばら下原しもばら和木わぎと併せ、寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)の「原村」にあたると思われる。応永一〇年(一四〇三)の上杉憲実丹波知行分重書案(上杉家文書)には「丹波国漢部郷除原村」とみえる。また「蔭涼軒日録」寛正四年一二月二五日条には「彼院(勝智院)領丹波国原村上杉中務方不出帯支証之上者可被仰付之由以訴状被申之」とあり、翌五、六年にも関連記事がみえる。文正元年(一四六六)四月二六日条には「勝(智)院領原村之事以状申之、上杉当知行理運之由被仰出、仍勝智院閣之」とあって上杉氏の支配下にあったことがうかがえる。


西原村
にしばらむら

[現在地名]丸山町西原

石神いしがみ村の南、丸山川左岸の台地に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高五九八石余、うち田方は四五八石余。里見氏給人領。同一一年・同一五年の里見家分限帳でも同高、給人領。元和四年(一六一八)検地が行われ(「検地帳」西原区有文書)、同六年三八二石余が東条藩西郷氏に与えられた(東条藩領知目録)


西原村
さいばらむら

[現在地名]窪川町西原

窪川村の南、四万十しまんと川の左岸にある。村名について「南路志」に「古名荒谷村、又穴谷村ト云、大永の頃西原氏居城ニ依て西原村と云、今又荒谷村と唱」とみえ、荒谷あらたに村ともいっていたらしい。「仁井田郷談」(「南路志」所収)に古くは仁井田にいだ庄窪川郷一三村の一とある。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に「穴谷之村」がみえ、地積は一一町余、ヤシキ二一筆で大部分が西原分。


西原村
にしばらむら

[現在地名]建部町西原

北は旭川に面し、東は鹿瀬かせ(現御津町)、西は紙工しとり三ヵ村(現御津町)、北は中田なかだ村と接する平場の村。津高つだか郡に属し、寛永備前国絵図に高三六五石余とある。「備陽記」では田畠三〇町一反余、家数五四・人数三一五、池三、高瀬舟一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高七一一石は池田栄馬の給地。田高三九二石余・二三町七反余、畑高八三石余・六町二反余、給人林六町余、給人藪六反余、百姓林四反余、池一・樋守給一斗四升、底樋一、関戸一、家数四〇・人数二二三、牛一九、大工一・桶屋一、猟師鉄砲一。


西原村
にしはらむら

[現在地名]城端町立野原たてのはら

かつての当村の集落はさくらヶ池南部の水底にあった。立野ヶ原陸軍演習場の拡張で農地の買収が進み、大正八年(一九一九)全戸が移転した。現在西原と称している地区は昔の示野新しめのしん村の土地で、元の西原からは約四キロ離れた場所にある。

元和五年(一六一九)の家高新帳では上組本江に属し、役屋数五。正保郷帳では高一六二石余、田方一〇町二反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一六九石、免五ツ三歩、小物成は山役六九匁・蝋役五匁・牛役八匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では家数一八・人数一一〇(男五四・女五六)、馬一、おもな稼は杪柴・苧・ぜんまい売出しなど。


西原村
にしはらむら

面積:七六・五八平方キロ

阿蘇郡の南西端に位置し、阿蘇外輪山西麓の村で、東は阿蘇外輪山を境に久木野くぎの村、西は上益城かみましき益城ましき町、南は同郡矢部やべ町・御船みふね町、北は長陽ちようよう村と菊池郡大津おおづ町と接する。東部の阿蘇外輪山を源とする鳥子とりこ川が村の北側を、布田ふた川・木山きやま川が南側を西に流れ流域の水田を潤す。西部は火山灰に覆われた標高一五〇メートルから二〇〇メートルの高遊原たかゆうばるの台地となっている。


西原村
にしばるむら

[現在地名]大刀洗町西原

筑後川右岸に位置し、西方を小石原こいしわら川が流れ、西は守部もるべ村に接する。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(萩藩閥閲録)では三井郡「にし原村」の一九三石余など三千一〇〇石が村上景親の領知となっている。久留米藩領古図に村名がみえ、高二三九石余。本高は三三九石余(元禄国絵図、これは二三九石余の誤りであろう)。宝暦四年(一七五四)の一揆では三月二六日西原浜で北野・江戸・用丸三組の百姓が集会、翌日御井みい御原みはら両郡の百姓約四千人が加わり八幡やわた河原に集まったという(高橋音門筆記)


西原村
にしばるむら

[現在地名]熊本市池田いけだ四丁目

台地上に位置し、北は北島きたじま村・富尾とみのお村、西は池亀いけがめ村に急崖で接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳では、田方五町三反二畝余・畠方一二町八反九畝余、分米一五〇石三斗余で、茶床三筆二四歩、一尺まわりの上桑・下桑各一がある。屋敷登録人四、五筆の屋敷があり、家数一八、女房五・男子三、牛二とある。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では京町太郎右衛門手永に属し、当竿前は田四町五反余・畠一〇町一反二畝余である。池田手永に属し、「国誌」に「桟敷ノ尾ト云小村アリ」とある。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では惣畝数一五町九反六畝余、うち給地一四町五反四畝余・新地二反七畝余・諸開畑一町一反五畝余で、庄屋のほか頭百姓二・小百姓一九がおり、池亀村・北島村・柿原かきばる村分入込が惣畝数のほか四町六反九畝に及ぶ。


西原村
にしはらむら

[現在地名]倉敷市西阿知町西原にしあちちようにしはら

東・西両高梁たかはし川に囲まれた河内の西に位置し、村中央を鴨方かもがた往来が東西に抜け、西高梁川に渡船場があった。寛永備中国絵図では高六五八石余、岡山藩領。以後、幕末まで同藩領。享保六年(一七二一)の田畠七六町九反余、家数九八・人数七三〇、渡船一(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高六五八石余、直高八三九石余で蔵入、田三四町余・畑三九町二反余、樋二五、石橋七、波戸七、育麦蔵一、家数一二五(うち山伏一)・人数一千三七、牛二八、渡船一。天保一一年(一八四〇)の家数一六三・人数一千一五(「西原村組手鑑」江木文書)


西原村
にしばるむら

[現在地名]和泊町西原

国頭くんぜー村の南西に位置し、海に面している。地名は北を意味するニシと、耕作地の意のハルが結合したものという。初め久志検ぐしきぬ間切、安政四年(一八五七)から和泊わどまい方に属した。元禄七年(一六九四)頃、当村の下に唐船一艘が漂着、破船し、乗組員一一一人のうち一人が死亡、ほかは薩摩山川やまがわ(現山川町)まで送り届けている(沖永良部島代官系図)。集落は隆起珊瑚礁の段丘上に形成され、南部には東西に稜線が走り、その一画、琴平こんぴらの地に寛政一二年(一八〇〇)海上安全を祈願して鹿児島藩士の代官所役人が金毘羅権現を建立した。


西原村
にしばらむら

[現在地名]奈義町西原

行方ぎようほう村の南でよど川沿いに立地。川下は余野よの(現勝田町)。正保郷帳に村名がみえ、田二八六石余・畑七一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一〇七石余・開高二四石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数四二(うち河原村二・大石三・横尾四・長谷九・荒関三など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。元禄二年の鉄砲改帳(弓斎叢書)では猟師鉄砲二。森氏断絶後は幕府領。寛政四年(一七九二)の美作国中領地分では津山藩領・幕府領。嘉永五年(一八五二)の「美作鏡」、旧高旧領取調帳では東西に分村し、東分三四五石余・西分一四三石余。


西原村
にしばるむら

[現在地名]三重町西泉にしいずみ 西原

法泉庵ほうせんあん村の北にある。西を北流してきた大野川は当村域で大きく東へ、さらに南へ曲流する。北方対岸は岡藩領原田はらだ(現千歳村)。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には百枝ももえだ村分と合せた西原村の一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に西原村とみえ、高二四三石余、中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四二石余・畑方二〇〇石余、日損所と注記される。正保郷帳では三重之庄に属し、高三一八石余(田方八三石余・畑方二三五石余)には法泉庵村分を含む。


西原村
にしはらむら

[現在地名]小諸市西原

北国脇往還沿いにあり、南から東にかけては小諸城下、北は滝原たきばら村、東はもろ村、西は深沢ふかざわ川を境に芝生田しぼうだ村などに接する。

中世初期は、大室氏あるいは小室氏の支配下にあり、岩村田いわむらだ(現佐久市岩村田)を本拠とする大井おおい庄の地頭大井氏の繁栄後はその支配下となり、特に大井宗家が滅亡、大井安房丸が小諸に移されて以後武田氏の支配下に入るまでは、小諸鍋蓋なべぶた城大井氏の下にある。


西原村
にしはらむら

[現在地名]清水町清水

寺原てらはら村の西、有田川南岸の山間部に位置する。村はらん東番とうばんの二つに分れ、「続風土記」に「清水村郷の内にて寺原の西にあり、故に村名とす」とある。慶長検地時には清水村に含まれていたが、のち分村。天保郷帳によると村高一四二石余。

寛政一一年(一七九九)の西原村持高当作高并人別御調ニ付書上帳(堀江家文書)によれば、家数二五(うち無役三・無高三・潰株三)、人数九二(男四六・女四六)、牛七。紙漉職一〇人、日々稼三人、江戸中間奉公一人、奉公二人がいた。


西原村
にしあしはらむら

[現在地名]立山町利田りた

常願寺川中流右岸、石田いしだ村の北に位置し、東は曾我そが村。東芦原村(現舟橋村)が分村して成立したという(五百石地方郷土史要)。正保郷帳では高二〇九石余、田方一二町七反余・畑方一町二反、新田高二〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高九二石、免三ツ七歩、同四年の新田高七石、小物成は野役一七匁、元禄七年(一六九四)の検地引高五七石、享保六年(一七二一)の検地引高二〇石余(三箇国高物成帳)


西原村
にしはらむら

[現在地名]小松市西原町

日用ひよう川中流に位置し、山地と平地の境目にあり、西は粟津あわづ村。正保郷帳では高九九石余、田方四町七反余・畑方一町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高八〇石、免三ツ八分、小物成は山役七一匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には家数三(うち本百姓二・頭振一)、人数男五・女五、柴五〇〇束を一口として四三口の持山がある(小松市史)


西原村
にしばらむら

[現在地名]落合町西原

垂水たるみ村の対岸東方、旭川東岸の平野部に開けた村で、南辺を西流する河内こうち川が合流。正保郷帳では田高一八八石余・畑高六六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高四二石余・開高一石余。「作陽誌」では家数二八・人数一四七。津山藩森家断絶後の領主の変遷は下見しもみ村に同じ。


西原村
にしはらむら

[現在地名]中津村西原

飯盛いいもり山の南東麓、日高川沿いにある。東は高津尾たかつお村。「続風土記」に「慶長検地帳に西村とし、慶安以来西原といふ、高津尾の西なれは名つくるなり、村居高津尾村と相接す、高津尾の分村なるへし」とある。慶長検地高目録によれば村高七〇石余。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑六町八反余で高七二石余、家数二七で内訳は本役一一・半役二・無役一〇・庄屋一・年寄一など、人数一〇一、牛六、鉄砲四。


西原村
にしのはるむら

[現在地名]清和村須原すばる

東は馬場野ばばの村、西は高須たかす村に接する大矢おおや川左岸の村。近世は阿蘇郡菅尾手永に属し、「一統志」に村名がみえる。「国誌」によれば高六二石余。南郷菅尾手永木原谷組切支丹影踏面附御帳(原田種興氏蔵)には「西ノ原村」として安政六年(一八五九)の家数一五・人数七〇(男三八・女三二)、明治五年(一八七二)の菅尾郷七ノ小区川口組戸数人員調根帳(同氏蔵)では戸数一四・人員六四とみえる。


西原村
にしはらむら

[現在地名]新鶴村小沢おざわ

上小沢村の西三町にあり、北西は出戸田沢でとたざわ村。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では高二三石余、免四ツ四分一厘余、家数四、竈四、男一〇・女六、牛一。化政期の家数三(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数三・人数一九(人員録)


西原村
にしばらむら

[現在地名]一宮町西原

大木おおぎ村の北西にあたる。近世初めは幕府領であったが、寛永九年(一六三二)吉田藩領となり、慶安元年(一六四八)より新城しんしろの菅沼氏との相給村になった。


西原村
にしばるむら

[現在地名]唐津市はる

松浦川右岸の堤防沿いにあり、かつては松浦潟の砂州であった。寺沢志摩守が松浦川を改修し、陸地化した河床を開拓してできた村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西原村」の意味・わかりやすい解説

西原〔村〕
にしはら

熊本県中部,阿蘇外輪山の南西斜面を占める村。 1960年山西 (やまにし) 村,河原 (かわはら) 村と合体。米,野菜を栽培。肉牛の飼育と養豚が行われる。近年村内に電気機器の工業団地やゴルフ場ができ,また隣接する大津町菊陽町に工場が誘致されたことなどで,兼業農家がふえている。面積 77.22km2。人口 6426(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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