日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉田立卿」の意味・わかりやすい解説
杉田立卿
すぎたりゅうけい
(1786―1845)
江戸後期の蘭方医(らんぽうい)。名は預(よ)、号は錦腸(きんちょう)、天真楼。立卿は通称。杉田玄白と後妻伊与(いよ)の子として江戸浜町に生まれる。通詞(つうじ)出身の蘭学者馬場佐十郎にオランダ語を学ぶ。1804年(文化1)蘭方眼科をもって別家独立、小浜(おばま)藩医となる。1815年プレンクJoseph Jacob Plenck(1738―1807)の眼科書を訳して『眼科新書』を刊行。これは西洋眼科書翻訳刊行の嚆矢(こうし)である。1820年(文政3)プレンクの『黴瘡(ばいそう)新書』を訳刊。1822年幕府の天文台訳員となり、馬場佐十郎の後を受けて、ショメルNoël Chomel(1632―1712)の『日用百科事典』の翻訳に従事、その成果は『厚生新編』にみえる。また青地林宗(りんそう)とともにロシア人ゴロウニンの『日本幽囚記』の続訳にあたり、それは1825年『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』として結実した。天保(てんぽう)年間(1830~1844)老中水野忠邦(ただくに)の内命によって和蘭(オランダ)政典の訳に従事、これは子の成卿(せいけい)に引き継いだ。著訳書として前記のほかに『瘍科(ようか)新選』『和蘭外科要方』などがある。
[片桐一男]