江戸末期の蘭学者(らんがくしゃ)。杉田立卿(すぎたりゅうけい)の子。名は信、号は梅里、成卿は通称。1836年(天保7)蘭方医坪井信道(しんどう)に入門、医学・蘭学を学ぶ。1840年天文台訳員に任ぜられ、蘭書の翻訳に従事、1845年(弘化2)家を継ぎ、小浜(おばま)藩酒井侯侍医となった。1853年(嘉永6)アメリカ船・ロシア船来航のおりは箕作阮甫(みつくりげんぽ)とともに応接、文書取調べにあたった。1854年(安政1)天文台訳員の職を辞し、西洋砲術書の訳述に専従。1856年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授職に補せられた。訳著の業績多く、1843年、天文台で宇田川榕菴(ようあん)、箕作阮甫とともに幕命によりカルテンJ. N. Caltenの『海上砲術全書』の翻訳にあたった。1849年には『済生三方』3巻、『医戒』、『治痘真訣(しんけつ)』を刊行、また幕命で『沿海警備略説』1巻を訳す。1850年『済生備考』、1852年幕命により阮甫と『軍用火箭考(かせんこう)』17巻を訳出。1853年幕命により『海上砲術全書』を校訂。1856年には『砲術訓蒙(くんもう)』12巻を刊行した。また蘭文の『玉川紀行』は名文として知られている。
[片桐一男]
江戸時代後期の蘭学者,医師。杉田玄白の孫にあたり,立卿の子。名は信,号は梅里。成卿は字。江戸に生まれる。漢学を大槻磐渓(おおつきばんけい)に,蘭医学を坪井信道に学び,ドイツ語にも通ずる。1840年(天保11)幕府天文台訳局の訳員となり《海上砲術全書》などの翻訳に従事。44年(弘化1)オランダ国王が幕府に開国をすすめる国書を呈したとき,その翻訳グループの一員となり,53年(嘉永6)ペリー来航の際もアメリカ国書を訳した。45年家を継いで若狭国酒井藩の侍医となる。54年(安政1)天文台訳員を辞し,56年蕃書調所の教授に箕作阮甫らとともに任じられた。モーニケOtto G.J.Mohnike(1814-87)が日本にもたらした聴診器の模造品をいち早く用い,C.W.フーフェラントの著,とくにその中の《扶氏医戒》を訳して医の倫理を強調した。オランダ語で《玉川紀行》を著したほか,多数の訳述書がある。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。 明治以降となると,江戸期の学問はすべて空理を論ずる虚学とみなし,江戸末期の和魂洋才論的な発想の実学者たちが,あくまで儒学の優位性を主張したのに対して,西洋の政治,経済,哲学,軍事学をそれに代わるものとした。…
…そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。…
※「杉田成卿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新