青地林宗(読み)アオチリンソウ

デジタル大辞泉 「青地林宗」の意味・読み・例文・類語

あおち‐りんそう〔あをチ‐〕【青地林宗】

[1775~1833]江戸後期の蘭学者。松山藩医の子。幕府天文方訳員を経て水戸藩医となった。主著気海観瀾きかいかんらん」は日本最初の物理学書。

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精選版 日本国語大辞典 「青地林宗」の意味・読み・例文・類語

あおち‐りんそう【青地林宗】

  1. 江戸後期の医者、物理学者。松山藩医の子。蘭学を杉田玄白に学んだといわれる。物理学、地誌を研究し、「輿地(よちし)」「気海観瀾(きかいかんらん)」などを訳述。安永四~天保四年(一七七五‐一八三三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「青地林宗」の意味・わかりやすい解説

青地林宗
あおちりんそう
(1775―1833)

江戸後期の洋学者。伊予国(愛媛県)松山の松平氏の侍医快庵の子として生まれる。名は盈(えい)、号は芳滸(ほうこ)、林宗は通称である。家業の医学を学び、さらに蘭学(らんがく)を修めた。馬場佐十郎杉田立卿(りゅうけい)、宇田川玄真(1769―1834)、伊東玄朴(げんぼく)らと交わり、1822年(文政5)天文台訳員にあげられた。翻訳の途中で病没した馬場佐十郎の後を継いでロシアの軍艦ディアナ号艦長ゴロウニンの日記『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』を杉田立卿とともに完訳した(1825)。『依百乙(イペイ)薬性論』21巻、『訶倫(ホルン)産科書』3巻、『輿地誌略(よちしりゃく)』6巻、付録『地学示蒙(じもう)』2巻などを翻訳し、また『厚生新編』の訳業にも参画した。とくに物性をはじめ光、電気、気象などについて略説した『気海観瀾(きかいかんらん)』(1825)は日本最初の物理学書の刊本で、以後の物理学の移植に果たした役割は大きい。また1831年(天保2)訳語の統一のための同志会の設立を提言している。1832年水戸侯に招かれ医官兼西学都講となったが、翌天保(てんぽう)4年2月22日江戸本所(ほんじょ)で病没、浅草曹源寺に葬られた。2男5女があり、男子二人は幼くして溺死(できし)したが、長女は坪井信道、次女は伊東玄晁、三女は川本幸民に嫁した。

[菊池俊彦]

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改訂新版 世界大百科事典 「青地林宗」の意味・わかりやすい解説

青地林宗 (あおちりんそう)
生没年:1775-1833(安永4-天保4)

江戸時代の蘭学者,医者。松山藩主久松侯の侍医快庵の子。名は盈,字は子遠,芳滸と号した。初め家学の漢学,漢方医学を学び,のち京坂,次いで江戸に出て,馬場佐十郎,杉田玄白に師事し,蘭学,蘭方医学を学ぶ。父の死でいったん松山に帰り家督を継いだが,再び長崎,次いで江戸に遊学し,大槻玄沢,宇田川榛斎(玄真),杉田立卿,宇田川榕菴らと交わる。1822年(文政5)幕府の天文台訳員になり,多数の蘭書を訳した。訳書は,V.M.ゴロブニンの日本幽囚中の日記の蘭訳本を馬場佐十郎の後を継いで和訳した《遭厄日本紀事》をはじめ,《依百乙(イペイ)薬性論》《訶倫(ホルン)産科書》《医学集成》《公私貌爾觚(コンスブルグ)内科書》などの医薬書,《輿地(よち)誌》《輿地誌略》などの地理書,I.V.クルーゼンシュテルンの《世界航海記》の蘭訳本を和訳した《奉使日本紀行》や《居家備用》など多数にのぼる。また,オランダのボイスの《Natuurkundig Schoolboek》の訳などをもとに,25年日本最初の物理学書とされる《気海観瀾》を執筆し,27年に出版。32年(天保3)水戸藩主徳川斉昭に招かれ,医官兼西学都講となったが,翌年病没,浅草曹源寺に葬られた。現在,墓は松山市来迎寺にある。2男5女をもうけ,長女は坪井信道,次女は伊東玄晁,三女は川本幸民,四女は高野長英に嫁した。
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百科事典マイペディア 「青地林宗」の意味・わかりやすい解説

青地林宗【あおちりんそう】

江戸後期の蘭学者,医師。名は盈(えい),号は芳滸(ほうこ)。林宗は字。父は松山藩医。蘭学を馬場佐十郎(さじゅうろう)に学び,幕府の天文台訳員となった。著書《気海観瀾(きかいかんらん)》は日本最初の物理学書といわれる。またロシア人ゴロブニンの《遭厄(そうやく)日本紀事》いわゆる《日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)》を馬場佐十郎と共訳した。
→関連項目川本幸民

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「青地林宗」の意味・わかりやすい解説

青地林宗
あおちりんそう

[生]安永4(1775).江戸
[没]天保4(1833).2.22.
江戸時代後期の医師,蘭学者。名は盈,字は子遠,芳滸は号。初め漢方を学び,京坂に遊学。文化1 (1804) 年頃,江戸に帰り,訳官馬場佐十郎について蘭学を学ぶ。林宗は特に究理学 (物理) に意を用い,日本最初の物理学書『格物綜凡』を著わし,そのなかの要を集めて『気海観瀾』として世に出す。文政5 (22) 年杉田立卿とともに天文台に勤め,『遭厄日本紀事』を完成。同 10 (27) 年『万国地誌』を訳す。のちに『輿地志』 65巻を著わし,その要を集め『輿地志略』として出す。天保3 (32) 年水戸藩医兼西学都講 (洋学教授) に任命される。娘5人のうち3人が蘭方医の坪井信道,川本幸民,高野長英にとついだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青地林宗」の解説

青地林宗 あおち-りんそう

1775-1833 江戸時代後期の蘭学者,医師。
安永4年生まれ。父は伊予(いよ)松山藩侍医。漢方をおさめたのち長崎,江戸で蘭学をまなぶ。文政5年幕府天文台訳局訳官となり,杉田立卿(りゅうけい)らとゴローブニンの日記「遭厄(そうやく)日本紀事」を訳した。晩年常陸(ひたち)水戸藩の医官兼西学都講。天保(てんぽう)4年2月22日死去。59歳。名は盈。号は芳滸(ほうこ)。著作に「気海観瀾(かんらん)」,訳書に「輿地(よち)誌略」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「青地林宗」の解説

青地林宗
あおちりんそう

1775〜1833
江戸後期の蘭方医・物理学者
伊予(愛媛県)松山藩医の子。蘭学を杉田玄白に学び,幕府天文方訳員となり洋書の翻訳に従事。物理学を重んじ実験研究を行った。物理学書『気海観瀾 (きかいかんらん) 』はその代表作。

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世界大百科事典(旧版)内の青地林宗の言及

【気海観瀾】より

青地林宗(あおちりんそう)が1825年(文政8)に書き,27年に出版した日本で最初の物理的科学の刊本。桂川甫賢(1797‐1844)による序文4ページと凡例4ページ・本文80ページ・図6ページからなり,全文漢文で書かれている。…

※「青地林宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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