江戸後期の洋学者。伊予国(愛媛県)松山の松平氏の侍医快庵の子として生まれる。名は盈(えい)、号は芳滸(ほうこ)、林宗は通称である。家業の医学を学び、さらに蘭学(らんがく)を修めた。馬場佐十郎、杉田立卿(りゅうけい)、宇田川玄真(1769―1834)、伊東玄朴(げんぼく)らと交わり、1822年(文政5)天文台訳員にあげられた。翻訳の途中で病没した馬場佐十郎の後を継いでロシアの軍艦ディアナ号艦長ゴロウニンの日記『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』を杉田立卿とともに完訳した(1825)。『依百乙(イペイ)薬性論』21巻、『訶倫(ホルン)産科書』3巻、『輿地誌略(よちしりゃく)』6巻、付録『地学示蒙(じもう)』2巻などを翻訳し、また『厚生新編』の訳業にも参画した。とくに物性をはじめ光、電気、気象などについて略説した『気海観瀾(きかいかんらん)』(1825)は日本最初の物理学書の刊本で、以後の物理学の移植に果たした役割は大きい。また1831年(天保2)訳語の統一のための同志会の設立を提言している。1832年水戸侯に招かれ医官兼西学都講となったが、翌天保(てんぽう)4年2月22日江戸本所(ほんじょ)で病没、浅草曹源寺に葬られた。2男5女があり、男子二人は幼くして溺死(できし)したが、長女は坪井信道、次女は伊東玄晁、三女は川本幸民に嫁した。
[菊池俊彦]
江戸時代の蘭学者,医者。松山藩主久松侯の侍医快庵の子。名は盈,字は子遠,芳滸と号した。初め家学の漢学,漢方医学を学び,のち京坂,次いで江戸に出て,馬場佐十郎,杉田玄白に師事し,蘭学,蘭方医学を学ぶ。父の死でいったん松山に帰り家督を継いだが,再び長崎,次いで江戸に遊学し,大槻玄沢,宇田川榛斎(玄真),杉田立卿,宇田川榕菴らと交わる。1822年(文政5)幕府の天文台訳員になり,多数の蘭書を訳した。訳書は,V.M.ゴロブニンの日本幽囚中の日記の蘭訳本を馬場佐十郎の後を継いで和訳した《遭厄日本紀事》をはじめ,《依百乙(イペイ)薬性論》《訶倫(ホルン)産科書》《医学集成》《公私貌爾觚(コンスブルグ)内科書》などの医薬書,《輿地(よち)誌》《輿地誌略》などの地理書,I.V.クルーゼンシュテルンの《世界航海記》の蘭訳本を和訳した《奉使日本紀行》や《居家備用》など多数にのぼる。また,オランダのボイスの《Natuurkundig Schoolboek》の訳などをもとに,25年日本最初の物理学書とされる《気海観瀾》を執筆し,27年に出版。32年(天保3)水戸藩主徳川斉昭に招かれ,医官兼西学都講となったが,翌年病没,浅草曹源寺に葬られた。現在,墓は松山市来迎寺にある。2男5女をもうけ,長女は坪井信道,次女は伊東玄晁,三女は川本幸民,四女は高野長英に嫁した。
執筆者:道家 達将
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…青地林宗(あおちりんそう)が1825年(文政8)に書き,27年に出版した日本で最初の物理的科学の刊本。桂川甫賢(1797‐1844)による序文4ページと凡例4ページ・本文80ページ・図6ページからなり,全文漢文で書かれている。…
※「青地林宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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