改訂新版 世界大百科事典 「李徳裕」の意味・わかりやすい解説
李徳裕 (りとくゆう)
Lǐ Dé yù
生没年:787-849
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、中唐の宰相。趙(ちょう)郡の人、字(あざな)は文饒(ぶんじょう)。宰相李吉甫の子。蔭(おん)により校書郎で仕官し、文才を認められ34歳で翰林(かんりん)学士となる。父と対立した李宗閔(そうぶん)、その仲間の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)らの党と鋭く対立し、名高い牛李の党争の一方の旗頭となった。54歳で武宗即位(840)にあい、宰相に重用され、藩鎮を抑圧して中央権力の強化に努め、ウイグルなど外民族に対し積極的進出を図り、また廃仏を推進した。皇帝が宣宗にかわると節度使に出され、最後は反対党のため嶺南に移され病死。衛国公に封ぜられたので李衛公とよばれる。文集『会昌一品集』(別名『李文饒集』)が伝わる。
[池田 温]
…唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。古くより蛮夷の地として,官吏,文人が流されたが,唐の李徳裕や宋の蘇軾(そしよく)などが著名である。元代にも文宗のはじめ,多数の皇族・高官が政争のためここに流された。…
…進士に及第したが,制挙の際に時政を糾弾し,宰相の李吉甫(758‐814)にうらまれた。穆宗(ぼくそう),敬宗の代に宰相となり,李宗閔(?‐843)らと朋党をつくり,李吉甫の子の李徳裕のグループと吐蕃に対する政策などをめぐって激しく争った。これが牛李の党争といわれる。…
…兄文宗の柩前で宦官魚弘志・仇士良らに擁立された。即位すると朋党の争いに敗れ鄭滑節度使となっていた李徳裕を宰相に迎え,藩鎮勢力を抑えるとともに北辺ではウイグルを討つなど治績をあげた。円仁の《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》が語るとおり845年(会昌5),最大規模の廃仏を行い20余万人を還俗させたが(三武一宗の法難),翌年薬中毒により倒れ,宣宗が即位して仏教は再興された。…
※「李徳裕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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