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李徳裕 りとくゆうLǐ Dé yù

世界大百科事典 第2版の解説

りとくゆう【李徳裕 Lǐ Dé yù】

787‐849
中国,代の政治家。牛李(牛僧孺・李徳裕)の党争の一方の代表者。趙郡(河北省寧晋県)の人。字は文饒。憲宗朝の宰相であった李吉甫(758‐814)の子。名門の子として,科挙受験を望まず,父の陰で校書郎となり,翰林学士,中書舎人として詔勅起草を担当し,浙西観察使,鄭滑節度使などをへて,武宗朝の会昌年間(841‐846)に宰相をつとめた。この間,30年間にわたり,牛僧孺,李宗閔らのグループと吐蕃(とばん)や藩鎮に対する政策をめぐって対立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

李徳裕
りとくゆう
(787―849)

中国、中唐の宰相。趙(ちょう)郡の人、字(あざな)は文饒(ぶんじょう)。宰相李吉甫の子。蔭(おん)により校書郎で仕官し、文才を認められ34歳で翰林(かんりん)学士となる。父と対立した李宗閔(そうぶん)、その仲間の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)らの党と鋭く対立し、名高い牛李の党争の一方の旗頭となった。54歳で武宗即位(840)にあい、宰相に重用され、藩鎮を抑圧して中央権力の強化に努め、ウイグルなど外民族に対し積極的進出を図り、また廃仏を推進した。皇帝が宣宗にかわると節度使に出され、最後は反対党のため嶺南に移され病死。衛国公に封ぜられたので李衛公とよばれる。文集『会昌一品集』(別名『李文饒集』)が伝わる。[池田 温]

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世界大百科事典内の李徳裕の言及

【海南島】より

…唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。古くより蛮夷の地として,官吏,文人が流されたが,唐の李徳裕や宋の蘇軾(そしよく)などが著名である。元代にも文宗のはじめ,多数の皇族・高官が政争のためここに流された。…

【牛僧孺】より

…進士に及第したが,制挙の際に時政を糾弾し,宰相の李吉甫(758‐814)にうらまれた。穆宗(ぼくそう),敬宗の代に宰相となり,李宗閔(?‐843)らと朋党をつくり,李吉甫の子の李徳裕のグループと吐蕃に対する政策などをめぐって激しく争った。これが牛李の党争といわれる。…

【武宗】より

…兄文宗の柩前で宦官魚弘志・仇士良らに擁立された。即位すると朋党の争いに敗れ鄭滑節度使となっていた李徳裕を宰相に迎え,藩鎮勢力を抑えるとともに北辺ではウイグルを討つなど治績をあげた。円仁の《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》が語るとおり845年(会昌5),最大規模の廃仏を行い20余万人を還俗させたが(三武一宗の法難),翌年薬中毒により倒れ,宣宗が即位して仏教は再興された。…

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