中国,唐以来存続した官名。天子の秘書であり,また政治の顧問にあずかった。その宮中における出仕の館,翰林学士院は略して翰林院,また学士院と称せられ,雅名を翰苑という。翰林学士は初め,書画医卜などの専門家と共に宮中に召され,翰林待詔と呼ばれたが,玄宗の開元26年(738)独立して学士と称せられるようになった。文学の士は天子の詔勅を起草すると同時に,政治上の諮問にあずかるので,天子もまたその選任に意を用い,天下の名士を登用し,自然に上下の尊崇を受けるようになったからである。学士の定員は普通6名であり,その実権が宰相に次ぐので,内相と称せられ,特にその最右翼の承旨は,例として宰相に昇進することになっていた。宋は唐制を受け,文治主義を採ったため翰林学士院は一層盛大となり,機構が拡大され,最も名誉ある地位とされた。翰林学士のほかに翰林侍読学士,翰林侍講学士があり,天子の経書の講読に侍するが,また重臣を優待するための単なる名誉の兼官の名として用いられた。当時天子の命令を起草する官に知制誥(ちせいこう)があったが,これはあまり重要でない辞令書の文章などの作成に従うのに対し,翰林学士は国家的な大事に際しての大文章の撰述に当たった。翰林学士は天子に直属するので内制と称し,知制誥は宰相に属するゆえに外制と称し,併せて両制と称せられた。進士出身の文章の名家は知制誥から翰林学士,その承旨から宰相に昇るのが出世の捷径であった。明・清に入り,名称が単なる翰林院と改まり,掌院学士,侍読学士,侍講学士,修撰,編修など多数の属僚を擁したが,実際の政治から遠ざかって権力を失い,形式的な天子の講学に侍し,図書編集などを命ぜられるほか,儲才の地として人材をプールし,必要に応じて内外の実地に官僚を派遣する新たなる役目を帯びるようになった。
執筆者:宮崎 市定
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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