阪堺電軌阪堺線鳥居前駅の東側に社地が広がる。鳥居をくぐってしばらく参道を東に向かうと池があり、独特の反橋(太鼓橋)が架かる。本殿は反橋の東に手前(西)から西面して第三・第二・第一と並び、第四本殿は第三本殿の南に並ぶ(四本殿ともに国宝)。本殿を囲むように境内社が祀られており、社地中央南端に御田がある。摂津国一宮(大日本国一宮記)。旧官幣大社。なお創祀時には海に臨んでいたと推定され、明治期にも高灯籠の所在地(現在の住吉公園の西)まで海であった。
「延喜式」神名帳にみえる住吉郡「住吉坐神社四座並名神大、月次相嘗新嘗」に相当する。現在、底筒男命・中筒男命・表筒男命(以上を筒男三神・住吉三神とよぶ)・神功皇后の四柱を祭神とし、それぞれ第一本殿より第四本殿に祀る。このことは「住吉大社神代記」にもみえるが、異説もあって、「廿二社本縁」では筒男三神と玉津島明神(衣通姫)を、「二十二社註式」では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后を、それぞれ四座とする。筒男三神は、伊弉諾尊が黄泉国(夜見国)から帰り、筑紫の日向の小戸の橘の
この筒男三神が現在の住吉の地に鎮座した由来は、前掲の神功摂政前紀の続きにみえる。それによると、神功が三神を奉じて大和へ帰還する途中、坂王・忍熊王の反乱にあった時、三神が「吾が和魂を大津の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪市住吉区に鎮座。旧官幣大社。底筒男(そこつつのお)命,中筒男命,表(うわ)筒男命,息長帯姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)をまつる。記紀や《住吉大社神代記》(社蔵の文書で天平3年の奥書あり)によれば,住吉三神は伊弉諾(いざなき)尊の禊祓に際して海中より出現した神と伝え,神功皇后の西征に神助あり,〈吾が和魂(にぎみたま)は大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながお)に坐さしむべし〉との神託により,手搓足尼(たもみのすくね)によってこの地に鎮斎されたとする。鎮座は《帝王編年記》には神功皇后摂政11年辛卯とするが,4世紀後半より5世紀にかけて朝鮮半島との交通が頻繁となったのにともなって奉祀されたのであろう。それ以来手搓足尼(田裳見(たもみ)宿禰)の裔と称する津守氏が神主となり,海上平安の守神として,また禊祓,現人神,和歌文学の神として崇敬をあつめ,延喜の制で名神大社,摂津国の一宮,二十二社の一つに数えられ,とくに遣唐使発遣にあたっては奉幣あり,海上無事を祈ったことが《延喜式》祝詞や《万葉集》の歌にうかがわれる。中世南北朝時代,後村上天皇は前後9年にわたって当社住江(すみのえ)殿(住吉行宮(あんぐう))に滞在,1368年(正平23・応安1)ここに没した。
近世にも文人墨客の参詣が絶えず,一夜に二万三千五百句独吟の大矢数俳諧を行った西鶴,他界1ヵ月前の宝之市に社参した芭蕉,いまも柱形の碑に残る蜀山人(大田南畝)の逸話などが有名である。例祭は7月31日。特殊神事としては踏歌神事(1月4日),白馬(あおうま)神事(1月7日),御結鎮(みけち)神事(1月13日),松苗神事(4月3日),御田植神事(6月14日),宝之市神事(10月17日),埴使(はにつかい)(2月,11月)がある。
執筆者:真弓 常忠
平安時代初期以来20年ごとに社殿を造替する制が確立しており,室町時代中期までは実施されていたが,その後は破損をまって修理された。現在の社殿は1810年(文化7)に再建されたものである。本殿(国宝)は海に向かって西面し,奥から第一殿,その前に第二殿,さらに前に第三殿が並び,第三殿の南わきに第四殿がたつ。4社殿とも同規模同形式で,桁行4間,梁間2間,切妻造,妻入りである。内部は前後2室に分ける。正面と内外陣境では中央に柱をたてず,板扉を設ける。殿内は床張りとするが,回縁をもたない。屋根は檜皮(ひわだ)葺きで反りがなく,棟上の両端に置千木(おきちぎ),堅魚木(かつおぎ)5本を置く。外回りは彩色を施すが,殿内は素木である。各殿をめぐる瑞垣(みずがき)や玉垣の形も古風である。住吉大社に用いられたこの形式を住吉造とよぶ。その平面や立面が大嘗宮正殿と類似している点は注意される。なお,現在は本殿の前にのちに付加された横長の拝殿がたち,両者間を渡殿がつないでいる。
→神社建築
執筆者:宮沢 智士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大阪市住吉区住吉に鎮座。祭神は住吉大神(すみよしのおおかみ)すなわち底筒男命(そこつつのおのみこと)、中(なか)筒男命、表(うわ)筒男命の三柱と、神功皇后(じんぐうこうごう)(息長足姫命(おきながたらしひめのみこと))。住吉大神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の筑紫日向(つくしのひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)(小門)の檍原(あわぎはら)(阿波岐原)での禊(みそぎ)によって生まれた神であるが、神功皇后は、その神託を得て朝鮮に出兵、帰国後、現在地に大神を鎮祭したのが、第一・第二・第三本宮である。やがて皇后も、遺志により第四本宮に祀(まつ)られたと伝える。古くは名神大社、摂津(せっつ)国一宮(いちのみや)、二十二社に列した。祭神は禊祓(みそぎはらえ)の神、海路平安の神として古来朝野の崇敬厚く、遣唐使の出発にはかならず当社に祈願する例であった。また、大神が「現人神(あらひとがみ)」として顕現するという特異な信仰があり、多く白ひげの老翁の姿に描かれる。平安時代以降は和歌の神としての信仰も大いに広まり、津守国基(つもりのくにもと)をはじめ神主(かんぬし)にも歌人が輩出した。農業、産業の神として広く庶民の崇敬も盛んで、大阪市の鎮守として、正月や祭礼には非常ににぎわう。旧官幣大社。1946年(昭和21)社号を住吉神社から住吉大社という古称に復した。
国宝の本殿四棟は住吉造で、神社建築の最古の様式の一つである。平安初期までは、香取(かとり)・鹿島(かしま)神宮とともに、伊勢(いせ)神宮と同様20年に一度遷宮が行われた。境内には、反橋(そりはし)、石舞台(国の重要文化財)、石灯籠(いしどうろう)(400基)など由緒あるものが少なくない。御文庫(おぶんこ)は、1723年(享保8)大坂、京都、江戸の書肆(しょし)20人が発起・創建したもので、いまも大阪の書籍商では献本・参拝の伝統を伝える。境外南方に正印殿(神印を納めた所)の跡があるが、後村上(ごむらかみ)天皇崩御、長慶(ちょうけい)天皇践祚(せんそ)の遺跡でもある。摂社、末社も多く、楠珺(なんくん)社(初辰(はつたつ)さん)をはじめ独特の庶民信仰をもつものも多い。文書、書跡、彫刻、工芸など社宝は多い。なかでも731年(天平3)の奥書のある『住吉大社神代記』は、当社の由来について独自の古伝を伝えており、木造舞楽面、太刀(たち)などとともに国の重要文化財に指定されている。
7月31日の例祭(住吉祭)は、祓の意味を込めた代表的な夏祭で、大阪府指定無形文化財。6月14日の御田植神事は田植踊、住吉踊など貴重な芸能を伝承し、重要無形民俗文化財に指定される。そのほか踏歌(とうか)神事(1月4日)、白馬(あおうま)神事(1月7日)、御結鎮(みけち)祭(1月13日)、松苗神事(4月3日)、卯之葉(うのは)神事(5月初の卯の日)、御輿洗(みこしあらい)神事(7月21、22日)、宝之市(たからのいち)神事(10月17日)など特殊神事も豊富である。
[谷 省吾]
『西本泰著『住吉大社』(1977・学生社)』▽『田中卓他著『住吉大社史 上中下』(1963~94・住吉大社奉賛会)』
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大阪市住吉区住吉に鎮座。式内社・二十二社上社・摂津国一宮。旧官幣大社。祭神は住吉三神(底筒男(そこつつのお)命・中筒男命・表(うわ)筒男命)。神功皇后が三韓出兵の帰途に和魂(にぎみたま)を祭ったのを創祀とし,765年(天平神護元)に社殿が造営されたと伝える。古くから朝廷に信仰され,806年(大同元)従一位に叙された。海の神・航海の神であるとともに,畿内の堺の神として西からの災を払う性格も付与され,和歌の神としても信仰された。神主は古来から津守氏が継承。例祭は7月31日。住吉造の本殿は国宝,6月14日の御田植神事は国重要無形文化財。「住吉大社神代記」など重文の宝物を多数所蔵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…大社造の古い遺構として1583年(天正11)の同県神魂(かもす)神社本殿がある。
[住吉造]
大阪の住吉大社本殿の形式を住吉造という(図3)。1810年に造替された今の本殿は古い形式をおおむね伝え,奥行4間,間口(背面)2間,妻入りで,内部を2室に分ける。…
…摂津国住吉(すみよし)郡で,遣唐使もここを利用した。《万葉集》以降この地域一帯は〈住吉〉と表記されることが多くなり,現在も住吉大社がある。日吉(ひえ)神社が日吉(ひよし)神社と読まれるのと同様に,それが〈すみよし〉と読まれるようになった。…
…民俗芸能。大阪市住吉区の住吉大社に伝承される踊りで,古くは住吉大社の神宮寺,新羅寺の社僧が御田植祭に踊ったあと,住吉代参の祈禱の目的で京阪を巡回して踊ったものだという。白木綿の衣装に手甲,股引,脚絆といった旅仕度の者4~5人が円陣をつくり,音頭取りが大傘を立てて〈住吉様の岸の姫松目出たさよ〉などと傘の柄をたたきながら歌うのにつれて,うちわを打ちふり足をはねあげて踊る。…
…南北朝時代,南朝の後村上,長慶両天皇の行宮。正平一統(しようへいいつとう)のあと,後村上天皇は1352年(正平7∥文和1)2月26日賀名生(あのう)を出発,河内東条を経て2月28日摂津住吉に到着,住吉大社の神主津守(つもり)国夏の住江(すみのえ)殿を行宮と定め,半月ほど滞在した。このあと天皇は八幡(やわた)(山城男山(おとこやま)行宮)まで進出したが,5月敗退して賀名生に帰った。…
…のちに絶えたが1787年(天明7)の大嘗会に再興され,文政年間(1818‐30)にも行われたが以後廃絶した。なお,大阪市住吉大社で6月14日に行われる御田植祭(国指定重要無形民俗文化財)に巫女(みこ)が田中の舞台で舞う巫女舞を田舞と称している。【山路 興造】。…
…摂津国西成郡津守郷を本拠とした古代の氏族の一つ。大和平野への入口にあたる淀川河口付近は早くから交通の要衝として開けており,津守氏は津を守護する職務をもって大和政権に仕えた。氏族名もその職務に由来する。平安時代,古代氏族を出身別に分類した《新撰姓氏録》は,〈津守宿禰 尾張宿禰同祖 火明命八世孫 大御日足尼之後也〉と記す。《日本書紀》や《古事記》は,神功皇后紀(記)に津守連の祖を田裳見宿禰とする。仁徳紀は,秦人らを役して墨江之津を定めるとあり,津守氏の起源を類推する材料ではあるが確実ではない。…
※「住吉大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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