東橋詰町(読み)ひがしはしつめちよう

日本歴史地名大系 「東橋詰町」の解説

東橋詰町
ひがしはしつめちよう

上京区中立売通油小路西入

東西に通る中立売なかたちうり(旧正親町小路)を挟み、西は東堀川ひがしほりかわ通。

平安京の条坊では左京北辺二坊のほぼ中央の地で、平安中期以降は正親町小路おおぎまちこうじ堀川小路東の地。官衙町の「女官町」「帯刀町」にあたる(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「中立売橋詰丁」、寛永一八年以前平安城町並図に「橋詰丁」、延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」に「はし東町」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「東橋詰町」と出る。


東橋詰町
ひがしはしつめちよう

上京区下立売通堀川東入

東西に通る下立売しもたちうり(旧勘解由小路)の両側町。平安京の条坊では左京一条二坊三保一一町の南側と同一二町の北側の地で、平安中期以降は勘解由小路堀川大路かげゆこうじほりかわおおじ東の地。平安時代前期、一一町の地は官衙町の「左兵衛町」、一二町の地は藤原時平の「本院」にあたる(拾芥抄)。応永三二年(一四二五)一一月一〇日の酒屋交名(北野天満宮史料)から、当時この辺りに酒屋がいたことがわかる。


東橋詰町
ひがしはしづめちよう

東山区五条通大橋東入

五条大橋の東に位置する。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「問屋町東入 東橋詰町此町の内東の方に伏見街道あり」と位置を示す。伏見街道の五条口にあたった。

寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「はしのひがしづめ はしづめ町」とみえ、地図では寛永版平安城東西南北町並之図に初めて町名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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