松下町一丁目代地(読み)まつしたちよういつちようめだいち

日本歴史地名大系 「松下町一丁目代地」の解説

松下町一丁目代地
まつしたちよういつちようめだいち

[現在地名]千代田区岩本町いわもとちよう二丁目

神田松かんだまつがえ町の西に位置する代地で、待合まちあい橋から北に向かう道筋に沿った片側町。西は永富ながとみ町二丁目代地と武家地、南は武家地、北は源助げんすけ屋敷。当地は江戸時代前期以来の武家地で、当町から源助屋敷にかけての一帯は明暦三年(一六五七)新添江戸之図では松前志摩慶広(蝦夷松前藩)・津田平左衛門の拝領屋敷。なお寛永江戸図では松前・浅井両氏の拝領屋敷。寛文新板江戸絵図には松前兵庫と津田兵左衛門がみえ、元禄年間(一六八八―一七〇四)には当町域が井関玄悦に変わり、宝永年間(一七〇四―一一)の絵図では古田兵九郎、北側は三人の拝領屋敷に細分される。


松下町一丁目代地
まつしたちよういつちようめだいち

[現在地名]千代田区外神田そとかんだ四丁目

御染物屋伊左衛門おそめものやいざえもん拝借地の北側に位置する御成道東側の片側町。東は神田山本かんだやまもと町代地、西は同旅籠はたご町一丁目・同平永ひらなが町代地、北は同花房はなぶさ町代地(通称御成小路)。享保六年(一七二一)永富ながとみ町二丁目からの出火で松下町一―三丁目のすべてが類焼し町内全域が火除地となった。このうち一丁目は四ヵ所の武家地跡地に一三ヵ所の地面に分散して代地を与えられた。寛政五年(一七九三)湯島無縁むえん坂よりの火災で代地のうち柳原やなぎはら土手下ならびに神田富山かんだとみやま町続きの町屋が類焼し火除地となったため、翌年御成道東側の旗本近藤主殿頭邸と同大草伝次郎邸跡地に代地が与えられた。


松下町一丁目代地
まつしたちよういつちようめだいち

[現在地名]千代田区神田東松下町かんだひがしまつしたちよう

神田永井かんだながい町の北に位置する代地で、同三島みしま町を南北に分ける通りの北側に沿った片側町。西は武家地、東は同紺屋こんや町一丁目代地。松下町一丁目は三河みかわ町一丁目続きにあったが、享保六年(一七二一)に類焼して火除地となり、神田かんだ九軒くけん町代地続きに一ヵ所、同松枝まつがえ町続きに一ヵ所、同永井町向いに一ヵ所、八丁堀はつちようぼり(現中央区)に一ヵ所の計四ヵ所代地を与えられた。


松下町一丁目代地
まつしたちよういつちようめだいち

[現在地名]千代田区神田須田町かんだすだちよう二丁目・神田岩本町かんだいわもとちよう

御染物屋伊左衛門おそめものやいざえもん拝借地の東に位置する代地で、南北の通りを挟む両側町。東は武家地、南は岩本いわもと町など、北は神田かんだ柳原やなぎはら請負地。享保六年(一七二一)永富ながとみ町二丁目からの出火で松下町一―三丁目が類焼し火除地となった(文政町方書上)。このとき与えられた一丁目の四ヵ所ある代地の一所で、里俗に「けだ物店」と称した(御府内備考)


松下町一丁目代地
まつしたちよういつちようめだいち

[現在地名]中央区日本橋兜町にほんばしかぶとちよう

もみじ川東岸、肥後熊本藩細川氏下屋敷と伊勢桑名藩松平氏上屋敷との間にある。文政町方書上の松下町一丁目代地の項によれば、松下町一―三丁目(現千代田区)は享保六年(一七二一)に全焼し、一丁目はその後四ヵ所の代地が与えられた。このうち八丁堀新銀はつちようぼりしんしろがね町地続鳥居丹波守屋敷上り地跡と記される代地が当町にあたる。安永三年小間附町鑑の松下町一丁目代地の項では「八町堀塗師町代地続ニ有之代地」と記される。京間二七間五尺四寸、公役金を納めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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