朝日日本歴史人物事典 「板倉勝静」の解説
板倉勝静
生年:文政6.1.4(1823.2.14)
幕末の老中。父は桑名藩(三重県)藩主松平定永,天保13(1842)年備中国(岡山県)松山藩主板倉勝職の養子となり,嘉永2(1849)年襲封した。寛政の改革を行った老中松平定信は外祖父。号は松叟。藩政面では陽明学派の儒者山田方谷(藩校有終館学頭)を元締役兼吟味役に抜擢して財政再建,殖産興業,軍政改革などに努め,約10万両の負債を解消し,さらにほぼ同額の余財を生み出した。安政4(1857)年奏者番兼寺社奉行として安政の大獄の五手掛に任じられたが,寛大な処分を主張して大老井伊直弼と対立し,罷免された。文久1(1861)年復職し,翌年老中に任じられ生麦事件を処理,さらに将軍徳川家茂の上洛に随行し攘夷の勅命を奉承し,横浜鎖港談判に当たった。元治1(1864)年老中を退職したが,慶応1(1865)年再任され,第2次長州征討に際し寛典論を主張した。将軍家茂没後,一橋慶喜の将軍就任を推進する。その後慶喜の幕府強化策により新設された会計総裁に任じられ,幕政改革に尽力した。慶応3年10月土佐前藩主山内豊信の大政奉還の建言を受けると,その実現に努めた。鳥羽・伏見の戦ののち,慶喜に従って江戸に帰り,老中を辞し世子勝全に家督を譲る。松山城は岡山藩の征討軍の前に無血開城した。日光で謹慎中に新政府軍により宇都宮に移されたが,大鳥圭介に救出され,奥羽越列藩同盟の参謀となり,さらに箱館五稜郭に転戦した。しかし,東京に戻り自首し禁錮に処せられたが,明治5(1872)年赦免され,上野東照宮祠官となった。<参考文献>田村栄太郎『板倉伊賀守』
(長井純市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報