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井伊直弼 いい

美術人名辞典の解説

井伊直弼

幕末の大老・彦根藩主。幼名は鉄之介、のち鉄三郎、字は応卿、号に无根水・埋木舎・柳王舎・雲竜・澍露軒等。安政5年(1858)大老に就任し、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて十四代将軍を徳川慶福(家茂)に定めた。また米国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約を締結、これに反対する大名公卿・志士らを弾圧する安政の大獄を断行。禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶人としても知られる。万延元年(1860)桜田門外の変において歿、46才。

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百科事典マイペディアの解説

井伊直弼【いいなおすけ】

幕末の大老,近江彦根藩主。1850年家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)と称し,藩政に努めた。開国和親を主張し尊攘(そんじよう)派と対立。1858年大老に登用され,将軍継嗣問題では一橋派を排して紀州和歌山藩主徳川慶福(のちの14代家茂)を迎え,また勅許をまたずに日米修好通商条約を結んだ(条約勅許問題)。
→関連項目井伊氏開国(日本史)西郷隆盛島津斉彬尊王攘夷運動伊達宗城徳川家茂長野主膳彦根藩堀田正睦松平慶永水戸浪士

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

井伊直弼 いい-なおすけ

1815-1860 幕末の大名。
文化12年10月29日生まれ。井伊直中(なおなか)の14男。兄直亮(なおあき)のあと,嘉永(かえい)3年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家15代となる。安政5年大老。13代将軍徳川家定の継嗣問題や,開国か攘夷(じょうい)かで前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)らと対立。日米修好通商条約を勅許をえずに調印,将軍継嗣を和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))にきめた。一橋慶喜(ひとつばし-よしのぶ)を推して反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。46歳。号は宗観(そうかん)。著作に「茶湯一会集」など。
【格言など】抑(そもそ)も大政は関東へ御委任,政を執る者臨機の権道なかるべからず,然(しか)りと雖(いえど)も勅許を待(また)ざる重罪は甘んじて我等(われら)壱人(いちにん)に受候(うけそうろう)決意(「公用方秘録」)

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江戸・東京人物辞典の解説

井伊直弼

1815〜1860(文化12〜万延元)【大老】雪の桜田門外に散った、開国論の幕府大老。 幕末大老。彦根藩主。1853年ペリー浦賀来航に際し、彦根藩として相洲警備の重責を果たした。その際、意見書に開国論を展開、徳川斉昭と対立。1858年に異例の出世で大老職就任すると、勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、尊攘派の反感を買った。将軍継嗣問題で南紀派の中心となり徳川慶福(家茂)を推薦した。水戸藩への密勅がきっかけとなった安政の大獄で志士らを弾圧し、1860年桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に暗殺された。

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世界大百科事典 第2版の解説

いいなおすけ【井伊直弼】

1815‐60(文化12‐万延1)
江戸末期の大老,彦根藩主。掃部頭(かもんのかみ)と称した。1850年(嘉永3),長兄直亮の死により13代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は,開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。53年(嘉永6)にペリーが来航した直後に,幕府の諮問にこたえて,積極的に商船を海外に派遣し国威を示すことが皇国の安泰の道であるという意見書を出し,58年(安政5)1月,老中堀田正睦(まさよし)に日米修好通商条約の調印はやむをえないという意向を伝えたのも,そのためであった。

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大辞林 第三版の解説

いいなおすけ【井伊直弼】

1815~1860) 江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣けいし問題で水戸派と対抗、一四代将軍に紀州家の慶福よしとみ(家茂)をつけ、また、1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、60年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

井伊直弼
いいなおすけ

[生]文化12(1815).10.29. 彦根
[没]安政7(1860).3.3. 江戸
江戸時代末期の幕府大老。彦根藩主直中の 14男。部屋住みの頃,文武を修業。国学者長野主膳に師事。嘉永3 (1850) 年,長兄直亮の死後彦根藩主となる。掃部頭。ペリー来航に際しては開国主義を幕府に進言,また将軍継嗣問題では血統論から紀伊の徳川慶福を推し,攘夷派の一橋慶喜を推す水戸斉昭 (→徳川斉昭 ) と対立した。老中堀田正睦らの要請で,安政5 (58) 年4月大老に就任。条約勅許を得ようと朝廷に圧力をかけ,また同年6月,専断をもって日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) の調印を断行。これに反対する水戸派や攘夷浪士らを大量処罰したため (→安政の大獄 ) ,同7年桜田門外で水戸浪士団に斬殺された。 (→桜田門外の変 )  

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

井伊直弼
いいなおすけ
(1815―1860)

江戸末期の幕府の大老。彦根(ひこね)藩第13代藩主。日米修好通商条約を違勅調印し、安政(あんせい)の大獄の中心人物。桜田門外で暗殺された。文化(ぶんか)12年12月29日、彦根藩35万石の第11代城主直中(なおなか)の十四男として彦根城内に生まれる。母は側室お富の方(江戸麹町隼(こうじまちはやぶさ)町伊勢屋(いせや)十兵衛の女(むすめ))。父50歳、母31歳のときの子で、直中はすでに家督を直亮(なおあき)(三男、第12代藩主)に譲っていたから、両親の愛を一身に集めて成長した。1831年(天保2)17歳の直弼は、井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持(あてがいぶち)をもらい、彦根城中の槻(けやき)御殿を出て、第三郭の尾末町(おすえまち)の北の御屋敷に移った。この北の御屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。この埋木舎は「これ世を厭(いと)ふにもあらず、はた世を貪(むさぼ)るごときかよわき心しおかざれば、望み願ふこともあらず、たゞうもれ木の籠(こも)り居て、なすべき業(わざ)をなさましとおもひ設け」(埋木舎の記)たものであった。この埋木舎時代に「なすべき業」として、直弼は禅、居合(いあい)、兵学、茶道(代表作『茶湯一会集(いちえしゅう)』あり)など教養を積んだ。さらに国学者長野義言(よしとき)(通称主馬(しゅめ)、のち主膳(しゅぜん)、号を桃廼舎(もものや))に師事し、国学、歌道、古学などを学び、また彼を重用した。
 1850年(嘉永3)直亮の死去により直弼は彦根藩を襲封、掃部頭(かもんのかみ)と称した。ときに数え年36歳。1853年のペリー来航以降、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌1854年(安政1)の日米和親条約で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。開国政策をとった老中堀田正睦(ほったまさよし)(佐倉藩主)は溜間詰(たまりのまづめ)大名に支持されたが、これらの譜代(ふだい)大名を牛耳(ぎゅうじ)っていたのが直弼であり、攘夷(じょうい)主義をとった徳川斉昭(なりあき)(1800―1860)以下、松平慶永(よしなが)(春嶽。越前(えちぜん)藩主)、島津斉彬(なりあきら)(薩摩(さつま)藩主)らによって代表される大廊下詰(おおろうかづめ)家門(かもん)大名、大広間詰外様(とざま)大名としだいに対立するに至った。この対立は第13代将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣(けいし)問題と絡んでいっそう先鋭となり、家門・外様大名一派(一橋(ひとつばし)派)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜(よしのぶ)(斉昭第7子)を担いだのに対し、直弼ら譜代大名の派(南紀派)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を推した。
 1858年(安政5)直弼は大老に就任、将軍継嗣には慶福を決定し、さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。継嗣問題に敗れた一橋派は違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がり、ここに反幕運動としての尊攘運動に火がついた。幕府の危機をみてとった直弼は徹底した弾圧策をとり、翌1859年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。直弼の論理は大政委任を受けた幕府が「臨機の権道」をとるのは当然で、「勅許を待(また)ざる重罪は甘んじて我等(われら)壱人に受候決意」(公用方秘録)というにあった。しかし、直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。井伊直弼の評価は「不忠の臣」とか「開国の恩人」など、時代によって大きく振幅がある。[田中 彰]
『吉田常吉著『井伊直弼』(1963・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典の解説

井伊直弼 (いいなおすけ)

生年月日:1815年10月29日
江戸時代末期の大名;大老
1860年没

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世界大百科事典内の井伊直弼の言及

【安政の大獄】より

…1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧。多数の逮捕者と処刑者が出た。…

【桜田門外の変】より

…1860年(万延1)3月,尊王攘夷派の水戸浪士らが,大老井伊直弼を江戸城桜田門外に襲い,殺害した事件。1858年(安政5)6月,井伊は勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。…

【将軍継嗣問題】より

…両派内それぞれに条約への賛否両論を抱え,しかもそれぞれに条約勅許問題を継嗣問題を有利に展開させるための取引材料としたからである。この決着は,58年彦根藩主井伊直弼の大老就任によってつけられた。井伊は,条約調印もやむをえないとの決断を下すとともに,将軍の養子は慶福(14代家茂(いえもち))に決まったと公表し,反対派をことごとく弾圧した。…

【条約勅許問題】より

…この間,水戸藩や尊攘派志士は攘夷の入説を繰り返し,また開国政策を支持する薩摩,福井藩なども将軍継嗣に一橋慶喜を推す勅許を得ようと画策したため(将軍継嗣問題),京都情勢は両問題が絡んで複雑な様相を呈した。 幕府は中国のアロー号事件の例をひき,強く調印を迫るアメリカの要求を入れ,58年6月19日大老井伊直弼は勅許を得ないまま調印を断行した。これが幕末政局激動の発端となり,以後尊攘派は幕府攻撃の絶好の口実を得,他方幕府は強硬策をとりつつ(安政の大獄),200年にわたる朝廷への統制策を放棄し,攘夷の意を奉ずることで朝廷との融和を図った。…

【尊王攘夷運動】より

…朝廷は攘夷を主張した多数の公卿の意見をいれて,幕府の要請を拒絶した。これら公卿に,条約勅許がおこなわれないように説いたのは,将軍徳川家定の継嗣問題で井伊直弼と対立していた徳川斉昭,松平慶永(よしなが)など一橋派の雄藩大名であった。4月大老となった井伊は,6月には勅許を得られないまま条約に調印し,ついで将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))と定めた。…

【大名茶】より

…遠州,石州の茶は封建社会を支える分限思想や儒教道徳的な徳目をその茶道思想に含み,好みも均衡のとれた洗練度の高い美しさを見せ,また名物道具を中心とする書院台子の茶の伝統をその点前に包含するなど,大名の趣味としての要件を備えているといえよう。ことに石州の流儀は広く武士階層に広がり,江戸時代後期に至って松平治郷(まつだいらはるさと)(不昧),井伊直弼(いいなおすけ)などの有力な大名茶人を輩出させた。【熊倉 功夫】。…

【茶道】より

…18世紀の茶道の特徴は町人の間に広がった茶道が遊芸化し,それにともなって茶道が家元制度(家元)をとりはじめることだ。19世紀になると,遊芸化した茶道への批判として,秘伝に隠された茶道具の実証的研究を軸に名物を中心とした茶道の復興を試みる松平不昧(松平治郷(はるさと)),あるいは茶道を精神的修行の場として再認識しようとする井伊直弼,あるいは茶を既成の芸道から解放して文人の楽しみとしようとする煎茶道などの新しい動きがあらわれた。 明治維新以後,茶道は一時期衰退する。…

【長野主膳】より

…幕末の政局に井伊直弼の懐刀として活躍した国学者。諱(いみな)は義言(よしとき),号は桃廼舎(もものや),主膳は通称。…

※「井伊直弼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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