板敷村(読み)いたじきむら

日本歴史地名大系 「板敷村」の解説

板敷村
いたじきむら

[現在地名]日南市板敷

飫肥おび城下の北に位置し、同城麓四ヵ村の一つ(六鄰荘日誌)。板鋪とも書いた(「旧記雑録」など)南西吉野方よしのかた村、北東郷之原ごうのはら(現北郷町)など。城下に近接していたため、地内の西山寺にしやまてら中島田なかしまだとびみねには藩士が集住していた。城下いま町から太田おおた(飛ヶ峯川)を渡り、当村南東端域の飛ヶ峯に入った飫肥街道(今町では春日馬場とよんだ)は、春日大明神の坂道を上り、飛ヶ峯峠を越えて殿所とのところ村に至った。この坂道の途中で西へ鵜戸うど街道が分れ、分岐点には「右うと道」「左きよたけ道」と刻まれた文化一四年(一八一七)の道祖神が残る。「六鄰荘日誌」によると嘉永元年(一八四八)飛ヶ峯に新道を開くなど整備が行われている。ほかに村内を北上して富土腹ふとはら(富土原)を経て、小松こまつ山の裾野にあたる乱杭野らんぐいのから郷之原村大藤おおふじ(現北郷町)境の桜原に出る道(富土原間道)が通じていた。この道は険しい坂道であったが、郷之原村から飫肥城の北に抜ける道であったため、飫肥藩往来を規制していた。村内は丘陵地が多く平田が少なく、水利も悪かったためしばしば干害に苦しんだ(日向地誌)。永禄二年(一五五九)一二月二三日伊東義祐は飫肥に侵入し、島津勢と「板敷田」で合戦となっている。同八年二月七日には飫肥本城の城衆一三人が、野伏によって板敷田で討たれている(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書など)

寛文四年(一六六四)の飫肥藩領郷村高辻帳に村名がみえる。検地古今目録(日向国史)によると慶長一〇年(一六〇五)には高一千四一二石余・田畑屋敷一〇五町余、寛保二年(一七四二)には高一千四八〇石余・田畑屋敷一二二町一反余。


板敷村
いたじきむら

[現在地名]新発田市東新とうしん町一丁目・同四丁目・板敷

島潟しまがた村の南に位置し、南は五十公野いじみの村。当村北部に字高浜たかはまがあるが、文和四年(一三五五)三浦景茂は母の所領「高浜桜曾根内田畠在家等」に対する加地氏の違法行為停止を守護代芳賀高家に訴え出、高家は蒲原かんばら郡奉行に対し、景茂にその田畠在家を安堵するよう命じている(同年一〇月四日「芳賀高家遵行状」志賀槙太郎氏蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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