郷之原村(読み)ごうのはらむら

日本歴史地名大系 「郷之原村」の解説

郷之原村
ごうのはらむら

[現在地名]北郷町郷之原

「ごうのはる」とも読み、古くは郷原・加宇原などとも書いた。大藤おおふじ村の北に位置し、東・北・西の三面を鵜戸うど山地の主脈やその西に派生するなかなどの支脈に囲まれる。東は主脈を境として宮浦みやうら富土ふと伊比井いびい(現日南市)内海うちうみ(現宮崎市)の各村、北は加江田かえだ村・鏡洲かがみず(現宮崎市)、北西は北河内きたがわち村、南西は板敷いたじき(現日南市)。北の家一郷かいちごう山を主水源とする猪八重いのはえ(年見川)が南流し、村の中央部付近で、北河内村から流れてきた広渡ひろと(一ノ瀬川)に注ぐ。広渡川は猪八重川を合せた辺りから南へ流れを変え、大藤村へと向かう。広渡川流域に稲作地帯が広がり、運輸・水利の便はよかったが、水害も多かった(日向地誌)。広渡川西岸山麓、現在の北郷中学校付近の字古城には中世の石崎いしざき(郷之原城・北郷城とも)跡がある。また日向国安国寺は当地に建立されたという。

〔中世〕

文保二年(一三一八)六月五日の日向在国司所職注文(土持文書)に「加宇原名四貫二百文 粮米五斗」とみえ、「此外引田一丁六反」との注記がある。南北朝期飫肥北おびきた郷の収納使・弁済使職をめぐって水間栄証・忠政父子と長谷場鶴一丸とが争いを続けたが、年月日未詳の水間忠政与党人注文案(長谷場文書)によると水間氏の与党として「加宇原平四郎入道」も加わっている。康安二年(一三六二)九月二日、北朝方の一色範親は「飫肥北郷石崎城」の攻撃に加わった土持時栄の戦功を賞している(「一色範親感状」土持文書)。なお「日向略記」には貞治四年(一三六五)「北郷ノ城」が陥落したとの記述がみえるが、この北郷ノ城とは石崎城のことと思われる。文明一六年(一四八四)新納忠続と伊作久逸との間で合戦となった折、久逸より加勢を頼まれた伊東祐国の弟祐邑は「郷ノ原ヲ通リ安国寺ニ打入」ったという(日向記)。祐国は翌一七年閏三月、飫肥(現日南市)の忠続攻撃のため出陣、祐邑も清武きよたけ口を越えて「郷原」を下り「内ノ田」(大藤地内)に兵を進め、飫肥衆を宮藪みややぶ(現日南市)に追詰め陣を張ったという(「日向記」など)

天文一〇年(一五四一)に飫肥城を継承した島津忠広は、出城として当地に陣を取り、羽島越後守・宇宿小次郎を地頭として置いた。同一四年この地頭両人は河崎三河守の計略に応じて、伊東義祐方に付くこととし、郷之原城には河崎三河守が入ったという(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書、「日向記」など)。翌一五年一月一九日、忠親(忠広の子)は郷之原を攻めることとし、忠豊(忠親の子)・北郷時久らは庄内などの兵を率いて当地に攻め入り合戦となっている(北郷氏系図など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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