日本大百科全書(ニッポニカ) 「林爽文の乱」の意味・わかりやすい解説
林爽文の乱
りんそうぶんのらん
中国、清(しん)代の台湾における最大の反乱(1786~87)。首領林爽文(?―1788)は福建省平和県の人。台湾の漳化(しょうか)県に移住し、北路の秘密結社天地会(三合会)の指導者となり、南路の荘大田(そうたいでん)と協力して組織を拡大した。当時、台湾の清朝官吏は劣悪を極め、人民の憤激を買っていた。林爽文は1786年、清朝の天地会弾圧を契機に蜂起(ほうき)し、新化、諸羅(しょら)(嘉義(かぎ))を占領して農民政権を樹立し、年号を順天と決め、大盟主に推戴(すいたい)された。「貪官(たんかん)を征伐して民生を安定させよう」というスローガンを掲げ、軍紀も厳粛であった。翌年、清朝は漢族の総兵柴大紀(さいだいき)と陝甘(せんかん)総督福康安(フカンガ)の活躍によって鎮圧に成功するが、その際反乱軍内部の郷党間対立が巧妙に利用された。林爽文は捕虜となり、北京(ペキン)で処刑された。なお、平定のために初めて郷勇(地主自衛軍)が登場し、後の白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱や太平天国における弾圧方式の範となった。
[安野省三]