栄国寺
えいこくじ
[現在地名]白鳥町湊
湊川の東、町の中心部の寺町にある。鶴内山心善院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来は松原にあった鶴内寺の本尊であった。鶴内八幡宮縁起(別宮八幡神社蔵)によると、もとは白鳥村田中にあって大伽藍を有し、神宮寺と号していたが、天正年中(一五七三―九二)長宗我部勢の兵火に罹り焼失、僧蘭月がこれを白鳥明神脇に移して再建、鶴内寺と称した。しかし寛文四年(一六六四)高松藩主松平頼重の白鳥宮再興に伴い鶴内寺は解体され、住職増誉は大窪寺(現長尾町)に移転した。その後延宝四年(一六七六)頼重は鶴内寺の本尊を迎え、善誉を開山として栄国寺を創建したという。「全讃史」に古く真言の道場であったが、頼重が浄願寺(現高松市)を菩提寺とし、浄土宗四ヵ寺を建ててそれを補佐せしめたとき、栄国寺は東林寺(現志度町)などとともに四ヵ寺の一つとされたとある。
栄国寺
えいこくじ
[現在地名]中区橘二丁目
清涼山と号し、浄土宗西山派。本尊は木造阿弥陀如来坐像。初め当地には刑場が設けられ、藩はここで切支丹宗徒を多数処刑した(編年大略)。二代藩主徳川光友は名古屋の南部方面を開発しようと計画し、刑場を春日井郡土器野新田(現西春日井郡新川町)へ移転させ、その跡地に寛文五年(一六六五)任空を迎え清涼庵という一寺を建立した(名古屋寺社記録集)。貞享二年(一六八五)藤田寺と改め、同年秋、瑞雲山栄国寺と改称。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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