日本歴史地名大系 「湊村」の解説
湊村
みなとむら
- 茨城県:那珂湊市
- 湊村
南は那珂川を隔てて
「常陸国風土記」香島郡の北至にみえる「
江戸時代の湊村は奥州・北海道と江戸を結ぶ海上輸送の中継港としての位置を占め、東北諸藩産米を江戸へ出す東廻海運の寄港地ともなった。
湊村
みなとむら
- 青森県:八戸市
- 湊村
八戸城下の北東、
領内の制札場の一とされ、寛文一二年には浦札・湊高札、忠孝奨励・切支丹禁制・毒薬禁止・捨馬禁止の制札が立てられていた(八戸藩史料)。新井田川河口の港集落として発達し、元禄三年の御領内巡見帳(小中野風土記)に家数四三とある。元禄頃までは漁船がわずかに利用する程度にすぎなかったが、宝永三年(一七〇六)新堀川、翌四年新井田川河口の改修工事が行われると荷役船や漁船の発着が盛んになり、宝暦一三年(一七六三)には家数は一一六に増加した(「御勘定所日記」同年八月一九日条)。その後
湊村
みなとむら
- 宮城県:石巻市
- 湊村
北上川河口から約四キロ上流の東岸に村の中心があり、北は
湊村
みなとむら
湊川下流域の村。北は播磨灘に面し、沖合に
寛永国絵図では白鳥郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では湊村の高四一九石余であるが、朱印高を記す貞享高辻帳が五六三石余となっているので、高覚帳では一部が白鳥郷一千三三五石余に含まれていると考えられ、貞享頃までに村域が確定したとみられる。「三代物語」には大川(湊川)より東、
湊村
みなとむら
- 佐賀県:唐津市
- 湊村
東松浦半島北東部に位置し、唐津湾入口の
「松浦古事記」には、神功皇后が朝鮮出兵の時、
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
手取川河口左岸の海岸沿いに位置し、
湊村
みなとむら
- 千葉県:市川市
- 湊村
押切村の南西、江戸川の左岸に位置し、行徳経由の佐倉道の道筋に家並が続く。南西は湊新田。江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図には「ハマ」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名が載り、高一〇八石余、天保郷帳では一八七石余。各村級分や天保郷帳の高は湊新田の高を含んでいると思われ、「葛飾誌略」に記される当村の高は八九石余。塩浜由来書(国立史料館蔵)によると、行徳の塩業は当村および
湊村
みなとむら
岩木川の右岸に位置し、東は
寛文四年(一六六四)の高辻帳に湊村四五〇・八石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として同高とある。同四年の検地帳は支村半田村を含めない湊村の田方二町五反三畝一三歩・畑方七町一反五畝一七歩、田畑屋敷合せて九町六反九畝、村高五九・三三一石、留林二ヵ所、漆木一一本と記す。「平山日記」正保二年(一六四五)に「湊村派立、此所十川尻落合ニ而船之往来荷上等有之ニ付、湊と成る」とあり、寛文年間(一六六一―七三)に「湊村屋並東ノ方ニ十川村派、十川添ノ同名と成る、後福川と改又湊村と成る、元ノ湊村ハ半田村と成る」とあり、岩木川と十川の合流点にあり船場であった。
湊村
みなとむら
- 鹿児島県:国分市
- 湊村
湊村
みなとむら
- 大阪府:堺市
- 湊村
堺町の南西側に隣接。堺廻り四ヵ村の一。村域は沖積低地で、ほぼ中央を堺町を経た紀州街道が南西に延びる。大鳥郡に属する。もと
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
- 和歌山県:田辺市
- 湊村
田辺町の東に位置し、南は海に面する。村の中心部を熊野街道大辺路が通り、半農半漁の街村をつくる。街はずれには松並木が続き、海浜には砂防林の松が密集する。小名に
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
湊村
みなとむら
椎田村の東に位置し、
湊村
みなとむら
大畑川の河口右岸の海辺に位置する。寛文七年(一六六七)に福士源五右衛門が百姓五戸を連れて開拓した(原始謾筆風土年表)。同九年には一五軒の増加をみ、二一軒となったが、「湊の家増本村差支るとて、十五軒より地子として一坪砂八分宛を令局へ収納たらしめ」(同書)と新家に地子金が割当てられ、家数は久しく二一軒に制限された。正徳三年(一七一三)の大畑湊え申渡候覚(大畑町誌)には「湊村古来本家廿壱軒之外、自今以後縦小破たりといふとも、造作葺替停止、破れ次第に可致事」とある。
天明元年(一七八一)従来置かれていた肝煎を廃し、大畑町一検断の支配下に入ったとされる(大畑町誌)。
湊村
みなとむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報