湊村
みなとむら
[現在地名]那珂湊市海門町一―二丁目・栄町一―二丁目・山ノ上町・釈迦町・中央一―二丁目・本町・東本町・富士ノ上・和田町一―三丁目・牛久保一―二丁目・殿山町一―二丁目・泉町・八幡町・洞下町・館山・幸町・相金町・田中後・国神前・峰後・関戸・堀川・富士ノ下・船窪・狢谷津・浅井内・ナメシ・沢メキ・道メキ・廻り目・扇田谷津・鍛冶屋窪・神敷台・涌井戸・中原・赤坂・西赤坂・和尚塚・鶴代・烏ヶ台・十三奉行・西十三奉行・田宮原・四十発句・新堤・雨沢谷津・小谷金・東塚原・洞下・横田・相金・獅子前・西鶴子田・宇津木下・曲目・横堰・西塚原
南は那珂川を隔てて磯浜村(現東茨城郡大洗町)、東は海。天保一〇年(一八三九)・同一三年の「湊村絵図」によると、那珂川は字辰ノ口(現海門町)付近から左折し、和田町の下付近(現那珂湊港埋立地)が河口となり、その対岸に細長く砂嘴「沖の洲」が発達していた。
「常陸国風土記」香島郡の北至にみえる「阿多可奈湖」は那珂川河口付近の水道ともいわれる。また鳥栖村(現鹿島郡鉾田町)の康永三年(一三四四)の鹿島氏本知行分注文(無量寿寺文書)に「鹿島尾張権守利氏子息尾張式部大夫実利本知行分常陸国戸田野郷給主職浦津浜湊河海等、当郷地頭出羽権守押領之」とある湊とは、「新編常陸国誌」では「那珂ノ湊ナルベシ」という。「那珂港名所図画」(菊地家蔵)によると字館山に中世の館跡があり、大掾氏・江戸氏・佐竹氏それぞれの家臣の居館といわれる。
江戸時代の湊村は奥州・北海道と江戸を結ぶ海上輸送の中継港としての位置を占め、東北諸藩産米を江戸へ出す東廻海運の寄港地ともなった。
湊村
みなとむら
[現在地名]八戸市湊町・小中野町 場尻・新堀、小中野七丁目の一部、同八丁目
八戸城下の北東、新井田川河口の両岸に位置し、左岸は沖積低地、右岸は台地となる。新井田川は北流して太平洋に注ぎ、北は太平洋に面する。浜通村の本村にあたり、東は白金浜村、西は小中野村、南は新井田村に接する。藩政当初は盛岡藩に属する。元和三年(一六一七)の南部利直下知状(南部家文書)に「みなと」「竹かはな」とあり、同年根城南部氏に給されている。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では浜通村のうちとして浜通に一括される。八戸廻に属する。
領内の制札場の一とされ、寛文一二年には浦札・湊高札、忠孝奨励・切支丹禁制・毒薬禁止・捨馬禁止の制札が立てられていた(八戸藩史料)。新井田川河口の港集落として発達し、元禄三年の御領内巡見帳(小中野風土記)に家数四三とある。元禄頃までは漁船がわずかに利用する程度にすぎなかったが、宝永三年(一七〇六)新堀川、翌四年新井田川河口の改修工事が行われると荷役船や漁船の発着が盛んになり、宝暦一三年(一七六三)には家数は一一六に増加した(「御勘定所日記」同年八月一九日条)。その後鮫湊の廻船に海上輸送する艀の発着地として賑いをみせ、文政末から天保初年になると港町として鮫より繁栄をみるようになった。文政三年(一八二〇)鮫の船方小宿二〇軒に対し当村は八軒であったのが、天保五年(一八三四)には礼金の割当は湊五〇両に対して鮫二五両となっている(「御勘定所日記」同年二月二〇日条)。また町の殷賑に伴って妓楼なども設けられるようになり、同一三年飯盛女の数は四二人となって、鮫の三一人を上回った(同日記同年七月二五日条)。この頃の船問屋では吉田源之助(淡路屋)と佐藤五兵衛が知られ、天保一五年の伊豆大島(現東京都)の船頭との約定一札之事(西村家文書)に「問屋吉田源之助、同五兵衛」とみえる。
湊村
みなとむら
[現在地名]石巻市不動町一―二丁目・八幡町一―二丁目・湊町一―四丁目・吉野町一―三丁目・川口町一―三丁目・大門町一―四丁目・明神町一―二丁目・湊・鹿妻・鹿妻本町・鹿妻東・松並一―二丁目・緑町一―二丁目・魚町一―三丁目
北上川河口から約四キロ上流の東岸に村の中心があり、北は大瓜村井内、東は根岸村本郷および端郷渡波町に接し、西は北上川を隔てて石巻村に対峙、南は石巻湾に面する。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)中に「一ミなとの内 舟十五そう」とある。同一六年のスペイン艦隊司令官セバスチャン・ビスカイノの「金銀島探検報告」一〇月一九日条に「Miatoに到る。水量多き河同所を過ぎて海に注げり。但し河口の砂洲は浅し。我等は同所に於て大に款待せられたり」とあり、当時の湊村民の開明度がうかがわれる。寛永八年(一六三一)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によれば、鈴木三平に「宮城之内なんご谷地」の替地として「小鹿之郡湊之内いない滝之口磯田」の永荒田八町分が「五年かうや」を条件に与えられている。
湊村
みなとむら
[現在地名]白鳥町湊
湊川下流域の村。北は播磨灘に面し、沖合に一子島が浮ぶ。湊川西の丘陵部や秋葉山(九七・一メートル)山頂付近から須恵器が出土している。古代南海道が通っていたと推定される。秋葉山の北東山麓に白鳳期の白鳥廃寺跡がある。東は松原村。昔は湊川の河口が湊の役目を果していたとみえ、波止の端・艫着などの地名が残る。
寛永国絵図では白鳥郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では湊村の高四一九石余であるが、朱印高を記す貞享高辻帳が五六三石余となっているので、高覚帳では一部が白鳥郷一千三三五石余に含まれていると考えられ、貞享頃までに村域が確定したとみられる。「三代物語」には大川(湊川)より東、水入免は古く白鳥村のうちとある。文化元年(一八〇四)の順道帳(渡瀬文書)によると村内各免場の反別・石高は、水入免が田二五町余・三〇一石余、畑二町余・一一石余、上所免が田七町余・一二六石余、畑二町余・一八石余、山下免が田三町余・三八石余、畑六反余・一石余、川西免が田一一町余・一五九石余、畑四町余・三六石余。
湊村
みなとむら
[現在地名]唐津市湊町
東松浦半島北東部に位置し、唐津湾入口の神集島に対する。玄界灘に臨むため冬期は北西の風を真正面に受け、西南は上場台地の一つ滝岳山に連なる丘陵地で、海岸の小串山との間に平坦地がある。川と名付けられるものは高良川のみで、灌漑はもっぱら長葉・谷頭・片川などの溜池に依存する。字鼓の海岸に姥ノ懐堤があり、潮風を防ぐ。村落は農業を行う湊岡(西分)と漁業を行う湊浜(東分)がある。
「松浦古事記」には、神功皇后が朝鮮出兵の時、吾瓮の海士烏麻呂という者に西の海を見させたとあり、吾瓮とは湊浦のことであるとする。
湊村
みなとむら
[現在地名]富津市湊
篠毛村の南に位置し、湊川が西方で浦賀水道に注ぐ。房総往還が通り、馬継場であった。湊浦が置かれ、「甲寅紀行」に廻船漁舟の津なりとある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五六九石。元和九年(一六二三)から寛永一一年(一六三四)まで旗本松平領、のち幕府領を経て同一五年から松平領。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。貞享元年(一六八四)からは幕府領(菱田家文書)。正保国絵図では湊町として同高が記載され、舟渡一〇〇間とあるので、湊川の対岸海良村への渡しであろう。
湊村
みなとむら
[現在地名]美川町湊町
手取川河口左岸の海岸沿いに位置し、能美郡に属した。河口港の湊を有し、対岸は石川郡本吉町。南接する梨木集落は、当村の出村と考えられる。「加賀志徴」によると古くは今湊と称し、慶長年間(一五九六―一六一四)頃に湊村に代わったとされるが、享保二年(一七一七)当村の肝煎判兵衛らが中古より湊村と唱えていたのを、旧名の今湊村に改める願書を提出したともいわれ(加賀志徴)、改称の年代については確証がない。ただし、「天文日記」天文一一年(一五四二)正月二三日条などに散見する「湊」が当地をさすか否かは不明であるが、天正一八年(一五九〇)と推定される正月二〇日の辻家政書状(湊村文書)は「みなと百姓中」に宛てられており、同年の小田原攻めの人足等にかかわる問題とともに、渡船・荒地開発の重要性について記される。
湊村
みなとむら
[現在地名]市川市湊・押切・行徳駅前二―四丁目・入船・日之出・新浜一―二丁目など
押切村の南西、江戸川の左岸に位置し、行徳経由の佐倉道の道筋に家並が続く。南西は湊新田。江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図には「ハマ」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名が載り、高一〇八石余、天保郷帳では一八七石余。各村級分や天保郷帳の高は湊新田の高を含んでいると思われ、「葛飾誌略」に記される当村の高は八九石余。塩浜由来書(国立史料館蔵)によると、行徳の塩業は当村および本行徳村・欠真間村の者たちが自家用に焼いていたのが始まりという。
湊村
みなとむら
[現在地名]五所川原市湊
岩木川の右岸に位置し、東は十川を境に姥萢村、北は五所川原村、北東と北西は半田村に接する。
寛文四年(一六六四)の高辻帳に湊村四五〇・八石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として同高とある。同四年の検地帳は支村半田村を含めない湊村の田方二町五反三畝一三歩・畑方七町一反五畝一七歩、田畑屋敷合せて九町六反九畝、村高五九・三三一石、留林二ヵ所、漆木一一本と記す。「平山日記」正保二年(一六四五)に「湊村派立、此所十川尻落合ニ而船之往来荷上等有之ニ付、湊と成る」とあり、寛文年間(一六六一―七三)に「湊村屋並東ノ方ニ十川村派、十川添ノ同名と成る、後福川と改又湊村と成る、元ノ湊村ハ半田村と成る」とあり、岩木川と十川の合流点にあり船場であった。
湊村
みなとむら
[現在地名]国分市湊・広瀬四丁目・山下町
須戸川(水戸川)を挟んで小村の東、国分平野の東部に位置し、南は海(鹿児島湾)に面する。北西は上小川村、北東は上井村、東は下井村と国分郷の村々に囲まれているが、近世には敷根郷に属し、同郷の飛地であった。なお天降川は寛文六年(一六六六)に河道が付替えられて現在のような流路になるが、それまでは現在の流路よりも東方、当村と小村との境付近を流れており、中世には当地は鹿児島湾奥の入口の役目を果していた。
湊村
みなとむら
[現在地名]堺市東湊町一―三丁・西湊町一―六丁・出島町一―五丁・楠町一―四丁・柏木町一―四丁・出島海岸通一―四丁・昭和通一―六丁・菅原通一―五丁・春日通一―四丁・八幡通一―三丁・老松町一丁など
堺町の南西側に隣接。堺廻り四ヵ村の一。村域は沖積低地で、ほぼ中央を堺町を経た紀州街道が南西に延びる。大鳥郡に属する。もと舳松村の枝村であったが慶長元年(一五九六)同村の今北助次郎教斎・助左衛門教明父子が当地に移住、願いによって独立村として認められたという(大阪府全志)。
湊村
みなとむら
[現在地名]浅羽町湊
太郎助村の西に位置し、南は海に臨む。「親元日記」によると、寛正六年(一四六五)に幕府は今川範将の遺領を御料所としたが、遠江では四ヵ所のうちに「湊村」が含まれていた(同年八月二日条)。永禄三年(一五六〇)七月二〇日に今川氏真は海老江菊千代に遠州所々新田を安堵しており、そのなかに江河新田がみえ、翌年八月二日にも氏真は菊千代に重ねて江河を安堵している(「今川氏真判物」海老江文書)。
湊村
みなとむら
[現在地名]上県町佐護西里 湊
佐護川の河口部にあり、朝鮮海峡に開いた浦となっている。佐護七ヵ村のうち。初め田地がなく、漁・塩焚を生業とし、「運船繋泊シ水上人之会スル処」という(津島紀事)。古代の
海水門を当地に比定する説があり、式内社という天神多久頭多麻神社や神御魂神社といった古社が鎮座する。中世より北端の鰐浦(現上対馬町)などとともに朝鮮半島へ渡海する拠点であった。永正八年(一五一一)三月「みなと」に唐人(高麗人)三人が連れて来られて二一日間逗留、朝夕の賄いは佐護が負担し、四月に鰐浦に移し、高麗に渡航させている。
湊村
みなとむら
[現在地名]南伊豆町湊
手石村の東、青野川下流の左岸に位置する。万治二年(一六五九)に手石郷より分村した(増訂豆州志稿)。寛文一二年(一六七二)には手石村のうちとみえ高四四九石余(「伊豆国中高之寄」一橋大学文書)。元禄郷帳では手石村枝郷と肩書され高五二一石余。領主の変遷は天明八年(一七八八)まで手石村と同じだが、文化八年(一八一一)旗本向井領となり幕末に至る(韮山町史)。天明八年の書上帳(湊区有文書)によれば鰯引網運上・鮑運上、高掛三役・塩竈役などがあり、川除御普請所六ヵ所・波除御普請所七ヵ所。
湊村
みなとむら
[現在地名]田辺市湊
田辺町の東に位置し、南は海に面する。村の中心部を熊野街道大辺路が通り、半農半漁の街村をつくる。街はずれには松並木が続き、海浜には砂防林の松が密集する。小名に敷・小泉・志保古がある(続風土記)。もとは秋津川東河口の海浜・平野部一帯を占めたが、「万代記」に慶長一一年(一六〇六)のこととして「田辺湊村御城普請始」「湊村城へ御移被成候町々附替田辺町割極」とあるように、田辺城築城とそれに伴う城下町形成により、城郭および城下町分は当村から分離し、村の領域は縮小した。
湊村
みなとむら
[現在地名]館山市湊
八幡村の北に位置し、西は鏡ヶ浦に臨む。平久里川の河口左岸を占める。寛永一六年(一六三九)に北条村より分村したという(安房国町村誌)。正保郷帳に村名がみえ、田高二一八石余・畑高九四石余で、北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳でも同藩領。天保一四年(一八四三)以降の領主の変遷は北条村と同様であったと考えられる。
湊村
みなとむら
[現在地名]市来町湊町
現市来町の西部に位置し、北は八房川を境として串木野村に接し、西は海に面している。江戸時代には市来郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高七四〇石余。「三州御治世要覧」によると延享年間(一七四四―四八)頃の高六四九石余。旧高旧領取調帳では高七〇三石余。寛政一二年(一八〇〇)の市来郷の門名書上(星原家文書)によれば一四門があった。
湊村
みなとむら
[現在地名]西郷町湊
中村の北西に位置し、北部は海に臨む。「島根県史」によると慶長一二年(一六〇七)の越智郡検地帳に湊村とあり、牧上畑の石盛は四斗代。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田六三石余・五町八反余、畑一三石余・一〇町八反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)八匁・漁請役四匁・柄油一斗二升役二匁四分・核苧二七〇目役七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、家数三〇(百姓二二・間脇八)のうち御役目屋敷八、人数一四二、牛四〇・馬二二、鉄砲二、船数八。
湊村
みなとむら
[現在地名]岡山市湊・門田本町四丁目
東山南東山麓、門田村の南東に位置し、西は網浜村。集落は南西流する倉安川沿いに発達。牛窓往来が通る。慶長九年(一六〇四)の検地帳(岡山市立中央図書館蔵)によれば高四七一石余(うち畑方七〇石余)、田畑反別二九町九反余(うち畑方八町四反余)、屋敷筆数六五、名寄人数六六。寛永備前国絵図では高四一九石余、正保郷帳では枝村に西湊村が載り、「備前記」には枝村に東湊を載せる。
湊村
みなとむら
[現在地名]椎田町湊
椎田村の東に位置し、城井川の河口東岸、周防灘に面する海浜部に立地する。明応八年(一四九九)二月一七日の大友氏年寄連署奉書(大津留文書/大分県史料二五)によれば、大友親治は「築城郡之内湊八町・王丸三町」を大津留兵庫助に宛行うよう築城郡代に命じている。天文六年(一五三七)一二月一五日、豊前守護代杉氏は築城郡湊浦の尺阿領分の船に国役と称して干渉するのをやめるよう、椎田御領の代官友枝隼人佐に命じている(「杉氏家臣連署書状」友枝文書/豊前市史 文書資料)。同一四年九月一六日の大内氏奉行人連署書状(興国寺文書/曹洞宗古文書)によれば、尺阿は「築城郡絹富湊」出米のうち興国寺(現赤池町)納分一〇石を与えられた「同法」(同朋衆か)で、同寺には田川郡弓削田庄(現田川市)内一〇石の代地が与えられている。
湊村
みなとむら
[現在地名]大畑町大畑 湊村
大畑川の河口右岸の海辺に位置する。寛文七年(一六六七)に福士源五右衛門が百姓五戸を連れて開拓した(原始謾筆風土年表)。同九年には一五軒の増加をみ、二一軒となったが、「湊の家増本村差支るとて、十五軒より地子として一坪砂八分宛を令局へ収納たらしめ」(同書)と新家に地子金が割当てられ、家数は久しく二一軒に制限された。正徳三年(一七一三)の大畑湊え申渡候覚(大畑町誌)には「湊村古来本家廿壱軒之外、自今以後縦小破たりといふとも、造作葺替停止、破れ次第に可致事」とある。
天明元年(一七八一)従来置かれていた肝煎を廃し、大畑町一検断の支配下に入ったとされる(大畑町誌)。
湊村
みなとむら
[現在地名]新宮町湊など
湊川の河口西岸に位置し、東は新宮浦、南東は下府村。小早川時代の指出前之帳では南の三苫村(現福岡市東区)の枝郷。慶長石高帳によると湊村の慶長七年(一六〇二)の検地高三四六石余、うち分大豆七八石余。元禄五年(一六九二)には高三五九石余、家数三九・寺一・社一、人数二九二(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。慶長一〇年八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に「湊」とみえ、浦として把握されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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