桜井庄(読み)さくらいのしよう

日本歴史地名大系 「桜井庄」の解説

桜井庄
さくらいのしよう

現桜江町の江川支流八戸やと川下流部から江川との合流点にかけての一帯に比定される。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に邑智郡の庄領として「さくらいのしやう 五十町」とみえる。天福二年(一二三四)八月の慈源所領注文写(華頂要略)に比叡山延暦寺常寿じようじゆ院領「桜井庄」とみえ、絹三二疋・綿六〇両・米一〇石および雑物などの負担が課せられていた。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)では京都浄金剛じようこんごう(現京都市右京区)領のうちに「常寿院領石見国桜井庄」とみえ、京都大覚寺長増の請負によって浄金剛院に寺用二千疋を納めることになっていた。


桜井庄
さくらいのしよう

多武峯とうのみね寺領荘園。護国院御神殿造営銭日記(談山神社文書)の永正一六年(一五一九)の「諸郷反銭納分四郷ハ五十文配、寄郷ハ百文配」に「五十九貫六十文上 桜井庄反銭六十一貫六十文之内 一貫文荒 又一貫定使給分 所残皆納」とある。桜井庄は多武峯寺所領のうちでは寄郷であったので、神殿造営反銭からみると当庄面積は約六〇町と推測される。その所在は荘号から大字桜井に比定される。

永正七年の勧進検断目録(談山神社文書)には

<資料は省略されています>

とある。


桜井庄
さくらいのしよう

頸城郡にあった奈良西大寺領の庄園。宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(国立公文書館蔵)の田薗山野図七三巻のうちに「一巻 頸城郡桜井庄布 在国印」とあるのが初見。その開発が同帳の雑書三九巻とするうちの

<資料は省略されています>

という記載となんらかの関係があり、かつ右の「景雲三年」が神護景雲三年(七六九)の略とすれば、本庄は神護景雲三年から宝亀一一年までの間に成立したと考えられる。しかし位置や変遷については推察手掛りがなく、その後、建久二年(一一九一)五月一九日付の西大寺所領庄園注文(西大寺文書)の「顛倒庄々」の項に「越後国 桜井庄三千百五十七町九段二百六十四歩在流記」と出ているだけなので、早く荒廃したものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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