桜井村(読み)さくらいむら

日本歴史地名大系 「桜井村」の解説

桜井村
さくらいむら

[現在地名]桜井市大字桜井

初瀬はせ街道(伊勢街道)かみ街道の交差地に所在。縄文・弥生遺跡も検出され、また多武峯とうのみね寺領桜井庄の地であったが、同庄は現高市郡明日香村にあった豊浦とゆら(桜井寺)と関係があった。なお「大和国中廻文次第」に興福寺大乗院方国民桜井氏がみえる。

当村は環濠集落であったが、中世以降の伊勢詣・初瀬(長谷寺)詣・三輪(大神神社)詣などの流行によって商業地域として発達し、一一合枡などの「桜井枡」が使用された。

文禄四年(一五九五)の太閤検地は旧桜井庄六〇町余と岩根いわね庄三町六段を含む桜井郷を対象として行われ、元禄郷帳の桜井村・たに村・河西かわにし村を含んでいるが、検地奉行は石田正澄で、総村高一五七一・二三石。慶長期(一五九六―一六一五)の領主は旗本伊藤治明であるが、元和二年(一六一六)改易され、幕府領(代官竹村九郎右衛門)に編入、さらに同五年津藩(藤堂高虎)領に組込まれた。

文禄四年の和州十市郡桜井村御検地帳写(谷区有文書)の分析によれば人家のある部分は「堀の内」(環濠集落)に限られ、わずかに南で多武峯街道に沿って延びているが、中央の丁字路は市場の所在地で、のちに桜井が宿場町になると問屋場の位置となる。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]志摩町桜井

糸島半島の北部中央に位置。「桜井三千石」と称された志摩郡最大の村。北は玄界灘に臨み、東にはてんヶ岳およびそれに連なる山陵があり、峠を越えて西にしノ浦(現福岡市西区)に通じる。桜井川が海老崎えびさき川を合流して西流する。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状によると「将軍家御寄進」と一括されたなかに「怡土庄内桜井・得光両名職吉良上総入道寄進」とみえる。天文四年(一五三五)八月二二日の大内氏奉行人連署奉書(防長風土注進案)では周防の竹屋兵庫允に「筑前国志摩郡桜井内鬼塚岩武名拾弐町弐段大・内乗船名壱町五段」が与えられているが、これは大友領を接収したものである。要検討文書とされる元亀三年(一五七二)正月二九日の原田了栄知行充行状(改正原田記附録/大日本史料一〇―八)には池田いけだ河原(現前原市)での合戦の恩賞として「志摩桜井之内七町」を国友六兵衛に加増しているが、天正六年(一五七八)以前に原田氏が志摩郡内に所領を有したか疑わしい。同七年一一月二七日の原田氏奉行人連署坪付案(山崎文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))によると、山崎弥十郎に助四郎を作人とする「桜井之内其むら」のうら山一所二反など計一町七反が与えられた。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]今治市桜井

現今治市南部に位置する。東はひうち灘に面して海岸線が長く、南は孫兵衛作まごべえさく桑村くわむら河原津かわらづ(現東予市)、西は長沢ながさわ村、北はだん村・国分こくぶ村および古国分ふるこくぶ村に接する。北西の山麓の集落を郷桜井ごうさくらい、海岸に沿った集落を浜桜井はまさくらいという。属島には約四キロ沖合に平市へいち島および小平市こべいち島がある。

村名から推して、古代の桜井郷の地域に含まれる。現在の法華ほつけ(国分尼寺)は、郷桜井の北西にあたる字郷西の引地ひきじ(寺山)に建立されているが、もとは引地山の東山麓、現在の桜井小学校の敷地内にあったと推定されている。この地から北西約一千五〇〇メートルの地に国分寺があり、これよりさらに約一千五〇〇メートル北西の現今治市上徳かみとく付近が国府所在地と推定されている。

貞和四年(一三四八)三月八日の地頭橘資義寺領田畠避状(国分寺文書)に「放進 伊与国桜井郷内国分寺尼寺御領田畠事」とあることから、国分寺・国分尼寺ともに桜井郷内に所在していたことは明らかである。なお、旧法華寺敷地は、条里では青木里十二坪に比定されている。

「一遍聖絵」文永一一年(一二七四)二月八日のところに「同行三人あひ具して与州をいで給ふ(中略)、聖戒五六ケ日をくりたてまつりしに、同国桜井といふ所より同生を花開の暁に期し、再会を終焉の夕にかぎりたてまつりていとまを申侍き」とみえ、一遍が弟子の聖戒と桜井で別れを告げている。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]安城市桜井町・ひがし

北は古井ふるい村に隣し、東は矢作川をもって青野あおの(現岡崎市)と境する。南は小川おがわ村に、西は和泉いずみ村に隣する。村の東部は、矢作川に沿って発達した沖積層で「フクジ」とよび、西部は洪積層で「カンチ」とよぶ。境は三―五メートルの崖となる。村名の由来は、下谷しもやにある桜井戸さくらいどに起るという。上橋下かみはしか遺跡(弥生中・後期)古井遺跡(弥生後期)に続く村の跡である。沖積地に明治中期頃まであったづか古墳は、古墳時代前期の円墳で、青銅製の鏡が出土した。秋葉あきば社内の八ッ塚神社に宝物として納められている。文様から「偽銘帯内行花文」とよばれ、五、六世紀のものと思われる。かめ塚・獅子しし塚のあったことも伝える。

「和名抄」に記す桜井郷はこの地に比定され、志貴しき庄に属する。「延喜式」神名帳に記す比蘇ひそ神社はこの地にあったとする説がある(桜井村史)。中世この地に小浦喜平次が住んだが、のち松平玄蕃助親房が拠り、次いでその甥内膳正信定(松平長親の三男)より六代居住し、「桜井の松平」と称されるようになる。下谷荒神社の由来書に「此地に桜井内膳正信定ノ家老堀勘兵衛重俊・堀内七郎宗正・堀六郎某」の屋敷があり、彼らがこの社を奉行したと伝える(明治二〇年地誌材料調査)


桜井村
さくらいむら

[現在地名]島本町桜井一―五丁目・桜井・青葉あおば一―三丁目・江川えがわ一丁目・若山台わかやまだい一丁目

広瀬ひろせ村の南西側にある。村の西部は山地で東部に平地が広がり、平地部のほぼ中央を南北に西国街道(山崎通)が通る。古くから開発された地で弥生時代の土器片が出土、また六世紀後半と推定される越谷こしたに古墳群・源吾山げんごやま古墳群などがある。条里の地割も残る。和銅四年(七一一)に設置された大原おおはら駅を当地辺りに比定する説もある。地名について桓武天皇が都を山城長岡ながおかに定めたとき、皇子の円満院法親王が大和桜井(現奈良県桜井市)から当地に移住、以後この地を桜井と称するようになったという。当地の御所ごしよ池を中心に法親王の御所があったと伝え、付近に御所之内ごしよのうち六条殿ろくじようどのなどの地名が残る。また最近の調査では、この一帯は傾斜地を切開いて庭園・建物を築いた痕跡が認められ、その構成は平安時代初期の宮苑遺跡である旧嵯峨院苑池(現京都市右京区の大沢池)に類似点が多く地名伝承の信憑性も高いとされている。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]甲府市桜井町

横根よこね村の東、大蔵経寺だいぞうきようじ山南西麓にあり、かつては同村とともに東隣の松本まつもと(現石和町)と一村をなしていたともいう(甲斐国志)。西を十郎じゆうろう川が南流する。秩父ちちぶ往還(青梅往還)がほぼ東西に貫通。往還の北側に並行して通る道沿いに寺と家居が並んだ。天正一〇年(一五八二)閏正月一四日の徳川家康印判状写(記録御用所本古文書)に桜井郷とみえ、七〇貫文の地が桜井安芸守(信忠)に本領として安堵されている。桜井氏は武田信縄の末子河内守信貞が川田かわだ館に隣接する当地に住して桜井を名乗ったのが始まりとされ、信忠は武田氏滅亡後徳川氏に仕え、甲斐国徳川家四奉行の一人となった(甲斐国志・寛政重修諸家譜)。また武田信虎の三男信廉(逍遥軒)も当地に住し、逍遥しようよう院を建てた(甲斐国志)


桜井村
さくらいむら

[現在地名]木更津市桜井・桜井新町さくらいしんまち一―五丁目・貝渕かいふち三―四丁目・桜町さくらまち一―二丁目

貝淵かいふち村の南、烏田からすだ川下流域に位置する。江戸湾に面し房総往還が通る。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領注進状(金沢文庫文書)に「桜井」とみえる。田二町のうち一八〇歩は永代沽却されており、他人の所領が混在する地であった。盛義は元応元年(一三一九)罪科により所領の三分一を没収され(年月日未詳「東盛義所領収公注文」同文書)、元徳元年(一三二九)四月金沢称名寺領として下地を打渡されるはずであったが、当地が盛義の所領の主要部分であった周東すとう郡下村西方半分とは村域が別であり、入交じり所領の領主が由緒をそれぞれ主張して打渡しが困難であったらしい(一二月二日「平宗継請文案」同文書)。文明一八年(一四八六)聖護院道興が当地を訪れ、「桜井の浜といへる所にて桜貝をひろふとて」として「春はさそ花おもしろく桜井の浜にそ拾ふおなし名の貝」と詠んでいる(廻国雑記)


桜井村
さくらいむら

[現在地名]干潟町桜井・さくらだい

万歳まんざい村の北に位置する。元徳年間(一三二九―三二)二月日の東庄上代郷屋敷注文(金沢文庫文書)に「さくら井」とみえ、弥三郎・弥四郎入道の住む「かきねの入道」の屋敷が一宇ずつあった。また元亨二年(一三二二)二月二九日の東盛義代官盛信所領配分渡状案(同文書)にみえる「江崎」は桜井地内と推定される。天正二〇年(一五九二)正月二五日の松平家忠知行書立には桜井郷とみえ、高二〇五石余。元禄郷帳・天保郷帳など郷帳類には記載がない。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]東部町大字滋野しげの字桜井

小県郡の東部、北国脇往還(現国道一八号)と千曲川の間にある村。東は片羽かたは村・赤岩あかいわ村、西は加沢かざわ(現東部町)、南は千曲川を隔てて布下ぬのした村・島川原しまかはら(いずれも現北佐久郡北御牧村)、北は大石おおいし村に境を接している。

応永七年(一四〇〇)「大塔物語」(小平氏蔵)に、小笠原長秀の部将坂西長国らが大塔に籠城した折、これを攻めた禰津氏の輩下の様子を記した中に「大手之一口者、禰津越後守遠光固之(中略)桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾人々、不非透間相戦」と桜井の名がみえる。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]佐久市大字桜井

千曲川を隔てて北東に下中込しもなかごみ村、北は今井いまい村、西は片貝かたかい川を挟んで今岡いまおか村・下平しもだいら村・小宮山こみやま村に対し、南に三塚みちづか村、南東は跡部あとべ村に接する平坦な地。富岡とみおか(現国道二五四号)がおおむね村の南東から南寄りに北西に抜けて中山道八幡やわた宿(現北佐久郡浅科あさしな村)へ至る。

道沿いに上桜井・中桜井・下桜井の集落が並ぶ。桜井新田は村の北千曲川寄りの段丘下にある。村は野沢平の中心部に位置し、南から北にわずかに勾配を示して千曲川にのぞむ。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]豊中市春日かすが町一丁目・さくらの町一丁目・少路しようじ一丁目・柴原しばはら町一丁目・刀根山元とねやまもと町など

桜井谷にある野畑のばたけ・少路・内田うちだ・柴原・南刀根山みなみとねやま・北刀根山の六ヵ村の惣名。桜井谷窯跡群の存在と関連して、漢氏の一族桜井宿禰の居住が推定されているが(豊中市史)、明確でない。また桜井谷六ヵ村産土神春日神社境内に桜井という湧水があり、井側に老桜があったので桜井の地名になったという伝承もある(大阪府全志)

中世は垂水西たるみのにし牧桜井郷に属した。永享元年(一四二九)八月日の春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠帳(今西家文書)では野畠・少路・内田・新免しんめんなどの地名が郷内に現れており、小村が分立し始めている。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]御所市大字鴨神かもがみ

金剛山地東麓に位置。東は神通寺じんどじ村。

近世初頭、佐味さび郷に属し御所藩領。寛文―元禄期(一六六一―一七〇四)に分離独立。元禄郷帳・天保郷帳では神通寺村の枝郷と注記し、幕府領。

延享元年(一七四四)の土砂堰并用水堰ケ所、洪水ニ付堰流損ケ所改帳・桜井村明細帳(竹村文書)によると古検は高二九七・〇二六石(文禄検地奉行新庄駿河守)、寛保二年(一七四二)の新検で二一二・三三七石。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]木造町中館なかだて

北に濁川にごりかわ村、東に下木作しもきつくり村、南に下相野しもあいの(現森田村)、西に町井田まちいた村。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に「田屋敷」とあり、村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)桜井村と改名された。翌年木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二八町六反二畝七歩、村高一八二・五一五石とある。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]養老町桜井

上方うわがた村の北西、南東流する牧田まきだ川の右岸に立地し、伊勢東街道が通る。集落は養老山地北東麓の小高い地にある。「和名抄」にみえる石津いしづ郡の桜樹さくらぎ郷を当村あたりに比定する説がある。弘治三年(一五五七)四月の多岐たぎ神社蔵懸仏裏面墨書銘に桜井住人とある。慶長郷帳によると「(上カ)方桜井村」とみえ、高五五六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では桜井村一村で高付され、田一七二石余・畑四四石余、山年貢一石余、大垣藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によると家数五一・人数二六二、中山道今須います宿(現不破郡関ヶ原町)の助郷村であった。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]玉名市伊倉南方いくらみなみかた

伊倉台地南西の三角洲平野上にあり、東は伊倉南方いくらみなみがた村、西は河島かわしま村・北牟田きたむた村に接する。慶長九年(一六〇四)二月の検地帳によれば田四五町二反四畝余・畠屋敷九町三反二畝余・屋敷六六筆、分米六四五石六斗余、家数一一七・人数二一〇、牛一七・馬三とある。小田手永に属する。元禄国絵図には「伊倉北方之内桜井村」とみえる。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]銚子市桜井町

東篠本ひがしささもと村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。永禄一一年(一五六八)頃と思われる一二月二三日の千葉胤富条書(原文書)に桜井とみえ、当地の替地として長塚ながつかがみの房に与えられているが、一部は桜井太郎左衛門に分与している。「家忠日記」天正二〇年(一五九二)九月一二日条の桜井は当地と思われ、初鮭を松平家忠に送っている。同一九年とみられる九月六日の検地帳(二冊、下桜井区有文書)に香取郡とう庄桜井村とある。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に桜井とみえ、真如坊が柑子木一本を植えていた。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]真壁町桜井

足尾あしお山西麓にあり、北は白井しらい村。弘安大田文に「桜井十七丁」、元亨二年(一三二二)三月二日の真壁郡役夫工米田数注文(税所文書)にも「桜井郷拾七町」とあり、中世は真壁氏の家臣桜井氏が居住したといわれる(新編常陸国誌)。慶長一一年(一六〇六)浅野氏領となり、同一四年の桜井村検地帳(谷口家文書)に田五一町九畝七歩(上田三二町余・中田一一町二反余・下田七町七反余)、畑三九町四反八畝一七歩(上々畑四町七反余・上畑一八町一反余・中畑九町二反余・下畑五町九反余・下々畑一町二反余・屋敷一反三畝余)、田畑合せて九〇町五反七畝二四歩(うち一三町七反九畝五歩は寺社領)とある。


桜井村
さくらいむら

[現在地名]原町市桜井町・青葉町あおばちよう高見町たかみちよう

東流する新田にいだ川南岸に位置し、西は南新田村。「奥相志」に「地勢平夷にして南に広原あり、散馬逐原なり」とみえ、「野馬除堤あり、柵門二ケ所あり、栗戸南木戸といふ、通路有り両木戸の間に一の新陂あり」とも記される。当村は雲雀ひばりヶ原の北東端に位置し、野馬散逸を防いだ野馬土手の一部が現在もその跡をとどめる。江戸初期は新田村の内で、明暦二年(一六五六)当村および南新田村・北新田村に分村、同年の高一八五石余(相馬藩政史)


桜井村
さくらいむら

[現在地名]富津市桜井

台原だいばら村の北東に位置し、みなと川が流れる。明和九年(一七七二)の道標がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四〇六石。元禄郷帳では高四二七石余で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から佐貫藩領で、幕末に至る。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四一。文化八年(一八一一)松平定信によるたけおか台場および陣場の普請に伴う人足の割当と、当時の助郷の増大が難渋として争論になっており(三浦家文書)、嘉永五年(一八五二)には助郷負担による村方困窮として年貢の一部が免除されている(椙山家文書)


桜井村
さくらいむら

[現在地名]大田原市小滝こだき

東部は丘陵地、西部は湯坂ゆざか川が南東へ流れる平坦地、集落は河岸の微高地にある。北は上桜井村、西は小滝村。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「下さくら井」とみえ六五石五斗とある。慶安郷帳には桜井村とあり、田五九石余・畑六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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