桝形囲貝塚(読み)ますがたかこいかいづか

日本歴史地名大系 「桝形囲貝塚」の解説

桝形囲貝塚
ますがたかこいかいづか

[現在地名]多賀城市大代 桝形囲

当貝塚は大正八年(一九一九)長谷部言人により調査がなされ、同一四年山内清男によって「石器時代にも稲あり」(「人類学雑誌」四〇―五)として公表されて一躍有名となった。貝塚は範囲は狭く包含層も薄く、貝の混入もわずかで、土器包含層と称したほうが適切なほどであったという。現在はその所在さえ明らかでない。山内の報告には「塩竈より海水浴場菖蒲田浜に至る道路の北側に接する低砂丘の東辺、同字橋本囲貝塚を距ること東南百五十歩許の処にあり」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「桝形囲貝塚」の意味・わかりやすい解説

桝形囲貝塚 (ますがたがこいかいづか)

宮城県多賀城市大代字桝形囲にある弥生時代の貝塚。多賀城市の東部に位置し,砂丘に立地する。貝層は薄く,貝殻や獣骨をまじえる遺物包含地であったようで,現在は完全に破壊されている。1919年に発掘され,磨消(すりけし)縄文による同心円文をもつ壺や,櫛描文,縄文のある甕など著しい特色をしめす土器が出土した。はじめは縄文時代末の土器と考えられたが,のち弥生土器であることがわかり,桝形囲式と命名され,東北地方南部の弥生時代中期の標式資料となった。最初にこの土器を整理した山内清男は,土器の底部についたもみの痕を発見し,東北地方でも早くから稲作農耕が行われていたことをしめす資料として,25年に〈石器時代にも稲あり〉という題名で報告した。このため,この貝塚は全国的に著名な遺跡となった。
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