埼玉県中央部にある市。1955年桶川町と加納・川田谷の2村が合体,70年市制。人口7万4711(2010)。大宮台地の北部を占める畑作地帯で,東部の元荒川沿いと西部の浸食谷には水田がみられる。江戸時代は中山道の宿場町で,5・10の六斎市も立ち,紅花の取引が盛んであった。1885年高崎線(現JR高崎線)が開通し,桶川駅が設けられた後も,大きな変化はなく,第2次世界大戦前は良質の大麦の産地であった。1960年代から酪農と養鶏が盛んになり,とくに荒川の河川敷を利用した川田谷地区の酪農は大規模なことで知られる。1941年三井精機工場が駅西口の広大な敷地に進出してから,近代工業が始まり,戦後も工場は増加した。しかし,近年は住宅や商店の増加の方が優勢で,三井精機工場も81年度中に移転が完了,跡地は5階建中高層住宅パークタウン若宮や公園,商業施設に転用された。荒川の河川敷には1964年に設立された小型飛行機用のホンダエアポートがあり,商業用の飛行船の基地にもなっている。
執筆者:新井 寿郎
中山道武蔵国の宿駅。江戸から10里4町。地名の初見は1352年(観応3)9月18日の足利尊氏下文。元禄期(1688-1704)に町立てされる。初め旗本西尾氏知行,1618年(元和4)天領,39年(寛永16)岩槻藩領となり,元禄期に天領に復した。正保期(1644-48)の村高は572石余で畑方の地,天保期(1830-44)の宿高は722石余。宿の規模は東西25町,南北18町余。文化・文政期(1804-30)の家数250軒余。しばしば水旱害の災いをうけた。本陣府川家は名主,問屋を兼帯,1657年(明暦3)以降名主4名とし年番で勤めた。脇本陣2,旅籠36。近郷村特産のベニバナは桶川臙脂(えんじ)として有名。94年の助郷高1万1407石,38ヵ村。1764年(明和1)の伝馬騒動には桶川宿で伊奈氏が一揆を停止した。市は5・10の日に開かれ,米穀取引を主とする。1861年(文久1)の和宮下向時には,助郷高5万8955石余,人足3万6394人に上った。
執筆者:大村 進
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埼玉県中央部にある市。1970年(昭和45)市制施行。市名は中世の桶川郷による。大宮台地の北部に位置し、東端に元荒川、西端に荒川が流れる。中央部をJR高崎線、国道17号が南北に通り、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の桶川北本インターチェンジがある。江戸時代は中山道(なかせんどう)の宿場町で、5、10の市(いち)日には、付近の農村で栽培されたベニバナの取引を中心とした六斎(ろくさい)市も開かれた。第二次世界大戦前、付近の農村は、大麦の産地として知られたが、今日は、川田谷(かわたや)地区を中心として、酪農が行われている。1960年代以降、精密機械、金属などの近代的工場や住宅が増えて、人口が急増したが、近年は横這い傾向にある。泉福寺(せんぷくじ)の木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(国指定重要文化財)、川田谷の熊野神社古墳などがある。面積25.35平方キロメートル、人口7万4748(2020)。
[中山正民]
『『桶川市史』全9巻(1979~1990・桶川市)』
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