菅谷村(読み)すがやむら

日本歴史地名大系 「菅谷村」の解説

菅谷村
すがやむら

[現在地名]群馬町菅谷

棟高むねたか村の東南にある。土地は緩やかな起伏はあるがおおむね平坦で、随所に低湿の菅の茂る谷地があったため地名が生じたという。「郡村誌」は「スケノヤ」と訓じる。弥生式(樽式)土器が出土し、南西部字石塚いしつかに円墳五基(現存二基)があった。

元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名がみえる。高五七八石余、田方五町六反余・畑方五三町余、高崎藩領。明治二年(一八六九)高崎藩領の家数人数取調帳(小島文書)によると元文五年(一七四〇)の家数一〇一・人数三七四、文政一三年(一八三〇)の家数一〇六・人数三八九。享和元年(一八〇一)村明細帳(福田文書)によると、田方一五町六反余・畑方五二町九反余・新田三二町五反余・萩田一町八反余、郷倉一、溜池二ヵ所、橋二ヵ所、伝馬は新波あらなみ(現高崎市)加助郷で中山道板鼻いたはな宿(現安中市)勤め、高崎出火の節、見付人足九人大手前の担当などの記事がある。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]那珂町菅谷

水戸より太田(現常陸太田市)に通ずる棚倉たなぐら街道上町うわまち通が村内を縦貫し宿場であった。西は鴻巣こうのす村と福田ふくだ村。武田山不動院縁起札(菅谷不動院蔵)によると、源義家が後三年の役の凱旋の折、鹿島大明神へ八幡大神を合祀し菅の屋を造ったのが村名の起りという。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「すかや」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「菅屋村」とみえる。「水府志料」によると戸数およそ二一七。

棚倉街道の西側に稗蔵があって、この辺りを御殿といった。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]滝根町菅谷

現滝根町の北部に位置し、北東部は仙台平せんだいひら中平なかだいらこまはな(地元では三峰山と総称)と続く石灰岩山地、南西部も山地で、その間に低湿地と平地が開けている。仙台平を源流とする梵天ぼんてん川が夏井なつい川と合流して西部を南流、西端を牧野まぎの川が西流する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に須賀屋とみえ、高一千八七四石余、田丸氏の知行地。万治二年(一六五九)の村高覚(福島県史)でも同高。


菅谷村
すぎのやむら

[現在地名]八千代町菅谷すげのや

佐野さの村南の台地上に位置し、東をやま川が南流、南西部を吉田よしだ用水が東南流する。小字権現山ごんげんやまには権現山遺跡があり、縄文中期・後期の遺物を豊富に出土し、山川東岸には天神山てんじんやま古墳がある。中世には山川やまかわ(現結城市)城主山川氏領であったが、下妻城主多賀谷氏が勢力を伸張すると当村一帯はその最前線となり、多賀谷政経の時すでにその勢力圏にあったといわれ、天正五年(一五七七)結城氏が反撃に出た(野口豊前覚書)


菅谷村
すがやむら

[現在地名]上尾市菅谷・菅谷一―六丁目・一―三丁目・平塚ひらつか一―二丁目

みなみ村・門前もんぜん村の東、大宮台地・上尾東部台地上にある。東半は原市はらいち沼から続く沖積低地。村名も菅の自生する湿地帯から生じたとされる(風土記稿)。観応三年(一三五二)九月一八日の足利尊氏袖判下文写(同書)に「武蔵国足立郡桶皮郷内菅谷村丸七郎跡」とあり、勲功の賞として春日八郎行元に宛行われている。当地北方に土塁・空堀を一部残す中世館跡がある。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]嵐山町菅谷

都幾とき川左岸に位置し、東は月輪つきのわ(現滑川町)上唐子かみがらこ(現東松山市)など、西は平沢ひらさわ村・千手堂せんじゆどう村。須賀谷とも記し、地名は山野に広く菅が自生していたことに由来するという(嵐山町誌)。古くは北に接する志賀しか村と一村であったが、寛文年中(一六六一―七三)に分村したという(風土記稿)。中世には鎌倉街道上道、近世には川越秩父道の通る交通の要地で、地内の菅谷館跡(のちの須賀谷城)畠山重忠の居館であった。永正六年(一五〇九)一〇月、連歌師宗長は大里郡鉢形はちがた(現寄居町)を発して「須賀谷といふ所」の小泉掃部助の宿所に一日休み、「冬かれや萱か下葉の秋の風」と吟じている(東路の津登)


菅谷村
すがたにむら

[現在地名]新発田市菅谷

下寺内しもじない村の西、西南流する坂井さかい川の右岸にあり、背後には櫛形くしがた山脈の山並が連なる。源頼朝の叔父護念の開基になる真言宗菅谷かんこく寺の門前集落として開かれたと考えられる。字馬場田ばばだには館跡があった。櫛形山脈の古城こじよう(二九一メートル)山頂から東南方に延びる尾根筋には大規模な山城の遺構が残る。その南には山越えで菅谷と箱岩はこいわ(現北蒲原郡加治川村)を結ぶ箱岩峠があるが、さらにその南、峠を挟んで古城山と対する鳥屋とやノ峰(二七六・七メートル)にも山城跡が残る。


菅谷村
すげのやむら

[現在地名]猿島町菅谷すがや

逆井さかさい村の南に所在。東部は菅生すがお沼上流のヤト田で、ほかは台地。天文二三年(一五五四)の梅千代王丸足利義氏充行状写(野田家文書)に「菅谷」がみえ、野田左衛門大夫の支配地。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)の「上幸嶋」分には「すけのや 野田三郎」とある。また落民士帳(忍田家文書)には「結城氏朝家臣、島田豊後、金久保右京、後藤刑部、飯田与兵衛」の郷士が記される。江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」には「菅野谷村」とある。


菅谷村
すがだにむら

[現在地名]洞戸村菅谷

北東流する菅谷川沿いに位置する山間の村。北は市場いちば村、柿野かきの(現山県郡美山町)、菅谷川は市場村の南で板取いたどり川に合流。建武四年(一三三七)四月七日の佐竹義基軍忠状写(秋田藩採集文書)に「馳向菅谷・柿野、致戦功焼払城槨等」とみえ、北朝方の佐竹義基が当地や柿野において南朝方と戦っている。新宮しんぐう神社(現郡上郡八幡町)の永正三年(一五〇六)七月銘をもつ大般若波羅蜜多経并五部大乗経修理札墨書には「濃州武義郡菅谷郷」とみえ、当地の矢作やはぎ神社に残る永禄一三年(一五七〇)四月三日の大明神社社殿造立棟札には「菅谷上下」と記される。


菅谷村
すがたにむら

[現在地名]相生市矢野町菅谷やのちようすがたに

小河おうご村の東、真広まひろ村の北、矢野川上流域右岸の河谷平野および後背山地に立地する。南境を古山陽道が通る。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に「菅谷」および菅谷を冠して「奥」「中」「上」「下」「ツツミノ上」「池下」「北山キワ」などの地名がみえる。当地は同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)にみえず、領家方に属したことがわかる。瓜生うりゆうと合せて西奥にしおく村に比定する説がある。江戸時代の領主の変遷は下頃けごろ村に同じ。寛永一〇年(一六三三)から承応元年(一六五二)の村免状(菅谷自治会所蔵文書)に菅谷村・奥矢野組菅谷村・奥矢野庄巣谷村などとみえ、寛永一〇年の高一九九石余、免四ツ七分で物成高九三石余であった。


菅谷村
すげのたにむら

[現在地名]河野村菅谷

越前海岸から少し内陸に入った山中にある。北東にあるホノケ山(七三六・八メートル)を北に回り菅谷すげんたん峠を越えて日野川沿いの鯖波さばなみ(現南条町)に至り、北西は谷沿いに河内こうち村。永正九年(一五一二)七月一六日付菅谷村大谷村山の堺目之事(向山家文書)に「東ハゆの尾さかいの、てこ岩新道さかい立岩さかい。南ハ大谷さかい、めうと岩さかい。西ハ大谷さかい、くろ尾さかい。北ハ大谷さかい、ほろけ清水さかい」とみえ、大谷おおたに浦との山境を記している。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図正保郷帳・天保郷帳などでは敦賀郡に属しているが、ただ元禄郷帳のみ南条郡とする。明治一八年(一八八五)に正式に南条郡となった。


菅谷村
すげんたにむら

[現在地名]穴水町菅谷

住吉すみよし川と山田やまだ川の支流水源地帯にあり、西は木原きわら岳を望む。北は樟谷くのぎたに村、南は伊久留いくろ村。正保郷帳では高七二石余、田方四町一反・畑方七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(山本文書)では高八四石、免三ツ八歩、小物成は山役九匁・炭竈一枚役二五匁。元禄九年(一六九六)の貸米請取面付帳(同文書)によると、一石七斗から一石九斗ずつ計九石を一〇回にわたり藩から借用する貧村だった。享保二〇年(一七三五)の百姓六・頭振二(「村々様子書上控」大西文書)。持高変遷を山本文書でみると、安永五年(一七七六)の百姓家数一一で、四〇石以上一、一〇石以上一、五石以上三、一石以上三、一石以下三。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]利府町菅谷

飯土井いいどい村・利府本郷の西に位置。村域の大部分は丘陵地で、東南方向へ扇状に平地が開け、その先端部を石巻いしのまき街道が通る。集落は街道沿いに形成。「延喜式」兵部省にみえる「栖屋すねや」駅(駅馬五疋)を当地に比定する説がある。留守分限帳(留守文書)の村岡孫左衛門の項に「十くわんふん(貫分)、すけや山」とあるのは当地のことであろう。「封内風土記」によると菅谷左近が居住したと伝える古塁跡があるという。正保郷帳によると田三二貫三六八文・畑三貫九二五文、ほかに新田高三一文。「安永風土記」では田四〇貫三三文・畑六貫八一四文、うち蔵入四貫五〇八文、ほかは給所。


菅谷村
すがたにむら

[現在地名]山中町菅谷町

大聖寺だいしようじ川上流右岸、下谷しもたに村の南に位置し、同川河岸段丘上に集落を形成。東部はさかしも峠に至る標高四〇〇―五〇〇メートルの山地。正保郷帳によると高四二〇石余、田方八町九反余・畑方二二町三反余、物成高一七一石余。「江沼志稿」によると高四四八石余、小物成は山役・茶役、家数五五・人数三四九、馬七、産物に片栗・片栗麺・山蚕糸があった。また「憩紀聞」に、当村で切出す菅谷石は硯石・砥石に加工され、十次郎なる者が硯彫細工をして売出していたことがみえる。


菅谷村
すがたにむら

[現在地名]勝山町菅谷

旭川支流の菅谷川の源流地付近の村。標高約六〇〇メートルの高原地帯で、西・北は星山ほしやま村、東は谷間の真賀まが村、南は竹原たけばら村。もとは和介菅谷村と称され、枝村として西畑にしはた村がある(作陽誌)。正保郷帳に和介菅谷村とみえ、田高六石余・畑高三一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳にも和介菅谷村とあり、村位は下、改出高三〇石余・開高六石余。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]下館市菅谷

下館城下西町口に接し、江戸道(結城街道)沿いに位置する。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き、下館藩領。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高六三六・二九四石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守神明、家数四〇、馬五とある。


菅谷村
すがやむら

[現在地名]福井市菅谷町・菅谷一―二丁目

福井城下の西方、足羽川右岸の平野にあり、明里あかり村の西に位置する。条里の復原から推定して、当地一帯は天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)にみえる「鴫野村」にあたり、その中の「西北六条十一菅江里」が当村付近に比定され、「菅江」が村名の起源と考えられる。


菅谷村
すげのやむら

[現在地名]土浦市菅谷町

白鳥しらとり村の北東に位置する。佐竹氏領だったため文禄三年(一五九四)太閤検地が行われた(土浦市史)。その後、佐竹氏の秋田転封に伴い、旗本成瀬小三郎の知行地となった。幕末は旗本石野銅之助領が二三石余、残りは天領であった(各村旧高簿)。村の中央にある八坂神社は旧村社。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の菅谷村の言及

【嵐山[町]】より

…埼玉県中央部,比企郡の町。1967年菅谷村が町制,改称。人口1万9706(1995)。…

※「菅谷村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android