梅北一揆(読み)うめきたいっき

改訂新版 世界大百科事典 「梅北一揆」の意味・わかりやすい解説

梅北一揆 (うめきたいっき)

1592年(文禄1)6月15日島津氏の家臣で,大隅湯之尾地頭の梅北国兼が朝鮮出兵の途中意を翻して加藤清正領の肥後国葦北郡佐敷城を奪取した事件。梅北は近郷の地侍に決起を呼びかけるとともに翌16日,田尻荒兵衛,東郷甚右衛門らを小西行長領の同国八代郡八代城攻撃に派遣するなど,肥後南部の一揆状況化を図った。さらに島津領と球磨郡相良領の武士に対しても与同を求め,一大名の支配領域を超える展開をみせた。しかし17日,梅北が佐敷城の留守居に謀殺されて一揆は崩壊した。一揆が失敗した最大の理由は,頼みにした地侍が蜂起せず,逆に一揆勢を攻撃する側に回ったことに求められる。梅北一揆は朝鮮出兵拒否の反乱ではない。統一政権の成立に抵抗する在地領主層の闘いであった。それゆえ,豊臣政権は一揆鎮圧を機に太閤検地を全国的に施行して兵農分離を進め,統一政権成立の方向をいっそう確実なものにした。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅北一揆」の意味・わかりやすい解説

梅北一揆
うめきたいっき

統一政権に対する在地領主層の反乱。主謀者の梅北宮内左衛門尉(くないざえもんのじょう)国兼(くにかね)は薩摩(さつま)島津氏の家臣、大隅国(鹿児島県)菱刈(ひしかり)郡湯之尾(ゆのお)地頭、同国姶良(あいら)郡山田を知行(ちぎょう)した。1592年(文禄1)朝鮮出兵のため肥前国平戸(ひらど)(長崎県)に至ったが、田尻但馬(たじりたじま)、伊集院三河(いじゅういんみかわ)らを語らい、6月15日、加藤清正(きよまさ)領の肥後国(熊本県)葦北(あしきた)郡佐敷(さしき)城を奪った。翌16日、田尻を小西行長(ゆきなが)領の八代(やつしろ)郡八代攻略に遣わし、肥後南部の一揆状況化を企てた。しかし17日、梅北が佐敷城の留守居(るすい)衆に謀殺され、一揆は崩壊した。一揆が失敗した最大の原因は、共闘を呼びかけた郷村の古侍層が決起せず、逆に一揆を攻撃する側に回ったことに求められる。一揆は九州の豊臣(とよとみ)権力の根拠地を選んで起こされており、単なる朝鮮出兵拒否の反乱とはみられない。一揆鎮圧後、1594年島津領、95年加藤領に対し太閤(たいこう)検地が行われた。梅北一揆は、統一政権確立への道をより確定的にする負(ふ)の役割を果たした。

紙屋敦之]

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