棚野村(読み)たなのむら

日本歴史地名大系 「棚野村」の解説

棚野村
たなのむら

[現在地名]勝浦町棚野

久国ひさくに村の南東に位置し、南部の竜王りゆうおう山などを水源とするたつ川が勝浦川に注ぐ。天正一三年(一五八五)田織部佐が「棚野五ケ村」の政所を命じられたという(阿淡年表秘録)。福良出羽守源連経は生夷いくいな谷勝浦山領の棚野山分ノ城に住し、天正八年に没したと伝える。また福良連之は当村の政所役を勤めていたが、元和五年(一六一九)に病死したという(「福良出羽守家系」徴古雑抄)。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「たなの」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「たなの村」と記される。


棚野村
たなのむら

[現在地名]佐伯市青山あおやま 棚野

石打いしうち村の南、堅田かたた川上流右岸に位置する山村正保郷帳に村名がみえ、田高五二石余・畑高一九石余、堅田郷に属した。寛政元年(一七八九)の村明細帳(日高家文書)では高七二石余、反別八町四反余、家数二三・人数一六一、牛一七・馬八、村役人庄屋一・組頭二、小物成は茶綿役定納銀二匁二分・六尺給米一斗四升余・御伝馬宿入用米四升余・御蔵前入用銀一〇匁八分余・薪二〇分一運上銀一匁八分余(不定)、郷蔵一があり、まず郷蔵に納めた年貢米は百姓役で柏江かしわえ湊まで陸送し、同浦から大坂廻米へ津出しした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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