楊虎城(読み)ようこじょう(その他表記)Yáng Hǔ chéng

改訂新版 世界大百科事典 「楊虎城」の意味・わかりやすい解説

楊虎城 (ようこじょう)
Yáng Hǔ chéng
生没年:1893-1949

中国軍人。名は(しゆう),虎城は号。陝西省蒲城県の貧農の家に生まれ,辛亥革命のころ軍人となる。1917年に于右任(うゆうじん)の陝西靖国軍(国民党系)に入り,安徽系軍閥と戦いながら省内に地盤を築いていった。30年,蔣介石から陝西省政府主席に任ぜられたが,蔣介石が西北地方の直接支配をめざしたため33年に罷免される。蔣介石への不満と保身上の理由から共産党員である甥の王炳南秘書に採用し,共産党との関係をもつようになった。36年12月の西安事件に際しては西安綏靖公署主任として西北軍を率いて張学良と行動を共にし,蔣介石に抗日を迫った。事件解決後,強制的に外遊させられたが,日中戦争開始とともに抗日戦に参加するため37年11月に帰国,国民党特務機関によって監禁された。監禁生活を送りながら各地を転々とした末,国共内戦末期の49年9月17日,重慶において虐殺された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楊虎城」の意味・わかりやすい解説

楊虎城
ようこじょう
Yang Hu-cheng

[生]光緒19(1893).陝西,蒲城
[没]1949.9.17. 重慶
中国の軍人。陝西講武堂を卒業し,辛亥革命に参加。 1917年靖国軍第5路司令となった。その後長く馮玉祥麾下にあった。北伐に際してはこれを支援し,29年馮玉祥らの反蒋戦争の際は国民党中央に服従を表明。 31~32年陝西省政府主席。 35年張学良が西安に移駐すると,張の内戦停止,一致抗日の主張に賛成して,36年 12月張とともに西安事件を起し蒋介石を監禁して,張と連名で内戦停止,愛国的指導者の釈放,南京国民政府の改組などの8項目の主張を全国に通電した。西安事件後,中国を離れたが,日中戦争勃発直後,抗日のため帰国し,逮捕投獄され,49年9月重慶の監獄で処刑された。

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百科事典マイペディア 「楊虎城」の意味・わかりやすい解説

楊虎城【ようこじょう】

中国の軍人。陝西省蒲城県の貧しい農家の生れ。1917年国民党系の軍に入り陝西省内で力をつけ,1930年−1933年陝西省政府主席。しかし蒋介石によって罷免されたあとは共産党と関係をもつ。1936年の西安事件では張学良とともに,蒋介石を監禁して内戦の停止と抗日を迫った。その後,国民党特務機関によって監禁され,共産党・国民党内戦末期の1949年虐殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「楊虎城」の解説

楊 虎城
ようこじょう
Yáng Hú-chéng

1883〜1949
中国の軍人
陝西省の人で土匪出身。辛亥革命・反袁闘争・北伐に参加した民族主義者。1931〜36年陝西省を統治し,反日・反内戦で張学良と同盟して,36年に西安事件を起こした。1938年に逮捕・投獄され, 49年,解放直前に重慶で殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の楊虎城の言及

【西安事件】より

…一方,日本によって中国東北部(満州)の故郷をうばわれた張学良麾下(きか)の旧東北軍は,陝西省西部で共産党の掃討に従っていたが,共産党や愛国学生の影響を受けて抗日救国の思想にめざめ,共産党との戦闘に消極的になっていった。そこで蔣介石は空路,西安の張学良司令部を督戦に訪れ,かえって愛国的な青年将校たちの影響を受けた張学良,西北軍の楊虎城らによって監禁され,内戦を中止して抗日に立ち上がるよう要求される結果となった。蔣介石の生死をめぐって世界の耳目は西安に注がれた。…

※「楊虎城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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