張学良(読み)チョウガクリョウ(英語表記)Zhāng Xué liáng

デジタル大辞泉 「張学良」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐がくりょう〔チヤウガクリヤウ〕【張学良】

[1898~2001]中国の軍人・政治家。海城県(遼寧りょうねい)の人。あざな漢卿かんけい張作霖の長男。父の爆死後、日本の反対に抗して、国民政府のもとで全東北の実権を握ったが、満州事変によって下野。外遊後、内戦の停止、抗日救国を要求して蒋介石を監禁する西安事件を起こしたため、禁錮刑に処された。チャン=シュエリアン。

チャン‐シュエリアン【張学良】

ちょうがくりょう(張学良)

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精選版 日本国語大辞典 「張学良」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐がくりょうチャウガクリャウ【張学良】

  1. 中国の軍人。父張作霖(ちょうさくりん)の爆死後、中国東北の実権を握った。満州事変後、中国東北失陥の責を負って下野外遊。帰国後、蒋介石の内戦政策に反発、一致抗日を訴えるため一九三六年西安事件を起こし、第二次国共合作の契機を作った。(一九〇一‐二〇〇一

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改訂新版 世界大百科事典 「張学良」の意味・わかりやすい解説

張学良 (ちょうがくりょう)
Zhāng Xué liáng
生没年:1898-2001

中国の軍人,政治家。東北地方を地盤とする軍閥張作霖の長男。1919年東三省武備学堂卒業。28年6月,張作霖が日本の関東軍の謀略によって爆殺されると,その後を継いで30歳で東三省(遼寧,吉林,黒竜江の3省)の実権を握った。彼は日本の期待に反して蔣介石南京国民政府に忠誠を誓い,同年12月,東三省は国民政府の行政下に入っていっせいに青天白日満地紅の中華民国国旗を掲げた。しかし20余万の東北軍は,その後も依然として張学良個人に忠誠を保ちつづけた。31年9月18日,日本の東北地方への武力侵略(満州事変)とともに東北軍はほとんど無抵抗で関内へ撤退,その後,熱河方面への侵略が露骨になっても,麻薬におぼれた張学良は積極的行動を示さず〈不抵抗将軍〉とそしられるに至った。1933年に外遊し,34年麻薬中毒を克服して帰国した張学良に対して抗日の中心として期待が集まったが,張学良自身は蔣介石の国内統一を支持し,そのうえで東北地方から日本を撃退することを望んでいた。

 しかし蔣介石の〈安内攘外〉(まず内を安んじたのち外にむかう)政策が,抗日運動の禁圧と共産党軍掃討に重点を置くにしたがって矛盾に苦しむようになった。34年以降,陝西省方面で紅軍との戦闘に動員されるうちに相手の政治的影響を受けた東北軍は,青年将校を中心に張学良に対して激しく抗日を迫り,張学良と蔣介石の間の矛盾はしだいに激化した。36年夏,張学良は周恩来と会見し,紅軍と抗日の秘密協定を結ぶに至る。同年12月,張学良は督戦にあらわれた蔣介石を西安に監禁し内戦の停止と一致抗日を迫った(西安事件)。これを機に国共合作が実現するが,張学良は蔣介石から官職を剝奪され,10年の禁錮刑を宣告された。以後,軟禁状態におかれた張学良は,その後も台湾の新竹郊外で外部との接触を禁じられた生活を送った。64年7月に台北発行の雑誌《希望》誌上に〈西安事変懺悔録・摘要〉が掲載されたが,ただちに回収された(香港の雑誌《明報》1968年8,9月号に転載)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張学良」の意味・わかりやすい解説

張学良
ちょうがくりょう / チャンシュエリヤン
(1901―2001)

中国の軍人、政治家。東北の遼寧(りょうねい)省生まれで、軍閥・張作霖(ちょうさくりん)の長男。1919年東三省の武備学堂卒、軍事・銀行などの役職を歴任したのち、1928年に作霖爆死に伴い東北の実権を受け継ぎ、日本の圧迫に抗して南京(ナンキン)の国民政府による中国の統一に努めた。1931年の満州事変には抗日を主張したが蒋介石(しょうかいせき)の意見とあわず不戦のまま東北を去り、1933年には下野、外遊。帰国後は国共内戦の前線指揮にあたり、1935年には西北剿匪(そうひ)副司令となり、長征後の八路軍と対峙(たいじ)する間に、内戦停止・一致抗日を主張、1936年西安(せいあん)事件を起こして蒋介石を幽閉し停戦を主張要求した。蒋介石の釈放後、官職を剥奪(はくだつ)され10年の禁錮刑に処された。その後、長く自宅軟禁状態におかれていた。1994年以降はハワイに居住。

[加藤祐三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張学良」の意味・わかりやすい解説

張学良
ちょうがくりょう
Zhang Xue-liang

[生]光緒27(1901).6.3. 遼寧,海城
[没]2001.10.14. ホノルル
中国,東北の軍閥。奉天派の領袖張作霖の長男。 1919年東三省武備学堂を卒業し,20年の安直戦争に1旅団を率いて参加。 28年6月張作霖が日本軍により爆殺されると,後継者として東北の実権を掌握,蒋介石の国民政府と提携するにいたり,12月 29日東北全土で青天白日旗を掲揚した (易幟) 。 31年の満州事変以後,国府の対日方針に従って無抵抗主義をとり,東北を日本軍の占領にゆだねた。紅軍の長征に際して西北剿匪副司令に任命されたが,ひそかに紅軍と停戦協定を結び,36年 12月紅軍討伐を督励するため西安に到着した蒋介石を逮捕監禁し,内戦停止,国府改組,政治犯釈放など8項目の主張を全国に通電した (西安事件) 。周恩来らの調停で蒋介石は内戦停止,一致抗日を受入れて釈放されたが,張自身は官職を剥奪され,10年の禁錮刑に処せられた。 49年蒋介石の台湾逃亡に伴い張も連行され,90年まで自宅軟禁状態にあった。 94年名誉回復,同年ハワイに移住した。

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百科事典マイペディア 「張学良」の意味・わかりやすい解説

張学良【ちょうがくりょう】

中国,民国初期の奉天派軍閥。張作霖の長子。1928年父の死後満州(中国東北)の実権を継承。国民政府と提携し,東北辺防軍司令となったが,満州事変で地盤を喪失。1936年西安事件を起こしたが,官職剥奪と10年の禁錮刑に処せられた。戦後は台湾へ連行され,1990年軟禁を解かれた。
→関連項目北洋軍閥柳条湖事件

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「張学良」の解説

張学良(ちょうがくりょう)
Zhang Xueliang

1901~2001

中国民国時代の軍人,政治家。遼寧省海城の人。奉天派軍閥張作霖(ちょうさくりん)の長男。若くして奉天軍を指揮し,北伐軍と戦う。1928年父が日本軍に爆殺されたのち,東北の全権を握り国民政府の統一を支持した。満洲事変では,「不抵抗将軍」といわれたが,内戦停止,一致抗日を求める世論に動かされ,36年蒋介石(しょうかいせき)を西安郊外に襲って監禁し,抗日体制の確立を迫った。この西安事件後裁判にかけられ,50余年間台湾で軟禁生活を送った。90年に名誉回復され,晩年はハワイで過ごした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「張学良」の解説

張学良 ちょう-がくりょう

1901-2001 中国の軍人,政治家。
光緒27年6月1日生まれ。張作霖(さくりん)の長男。1928年父の死後,中国東北部(東三省)の実権をつぎ,抗日色をつよめて国民政府の蒋介石(しょう-かいせき)の支配下にはいる。1936年延安で中国共産党の周恩来と内戦停止に合意,西安に蒋を監禁して共産党との統一戦線をせまり(西安事件),第2次国共合作の端緒をつくる。のち台湾に幽閉され,1990年軟禁を解かれた。2001年10月14日ハワイ州ホノルルで死去。100歳。遼寧省出身。東三省陸軍講武学堂卒。
【格言など】夫子の道は忠恕のみ(1990年代末「現在の日本人にひとこと」との問いにこたえて)

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旺文社世界史事典 三訂版 「張学良」の解説

張 学良
ちょうがくりょう
Zhāng Xué-liáng

1901〜2001  
中国の軍人・政治家
張作霖 (ちようさくりん) の長男。1928年父の死後,日本の反対を排除して満州を国民政府の下に統一し,副主席となった。1931年の満州事変後,下野して外遊。1935年以後は中国共産党の討伐にあたったが,のちにその抗日民族統一戦線に共鳴。1936年12月西安事件を起こし,第2次国共合作の契機をつくったが,その後監禁され,第二次世界大戦後,台湾に移ったのちも軟禁された。現在は軟禁を解かれ,ハワイ在住。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「張学良」の解説

張学良
ちょうがくりょう
Zhang Xueliang

1901.6.3~2001.10.15

中国の軍人・政治家。張作霖(さくりん)の長男。遼寧省出身。父が爆殺されたのち蒋介石(しょうかいせき)に接近,1928年国民政府傘下に加入。満州事変勃発後,33年下野し外遊。34年の帰国後共産軍討伐のため転戦するが,一致抗日の必要を認めて36年蒋介石を軟禁(西安事件),第2次国共合作の端緒を開く。事件後逮捕され,日中戦争中は貴州に,戦後も台湾で軟禁生活が続いたが,90年に名誉回復された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「張学良」の解説

張 学良
ちょうがくりょう

1898〜2001
中国の軍閥政治家
張作霖 (ちようさくりん) の長男。1928年の父の死後,満州の実権を握り,日本の反対を押しきり,満州を国民党の支配下に置く。満州事変で日本に抵抗。内戦の停止・抗日を蔣介石に説いたがいれられず,'36年西安 (せいあん) 事件をおこし抗日民族統一戦線結成を促した。戦後は台湾で軟禁生活が続いたが,'90年に名誉回復が行われた。'94年からハワイ在住。

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367日誕生日大事典 「張学良」の解説

張 学良 (ちょう がくりょう)

生年月日:1901年6月3日
台湾の軍人;政治家
2001年没

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世界大百科事典(旧版)内の張学良の言及

【西安事件】より

…中国で1936年12月12日,西安において発生した張学良による蔣介石監禁事件。日本の華北方面への侵略が激化していたにもかかわらず,蔣介石の国民党政権は,民族的な抗日の声に耳をとざして,共産党の掃討を優先し,そのうえで外敵と戦うという政策に固執していた。…

【中華民国】より

…日本で当時,満州某重大事件(張作霖爆殺事件)とよばれた大謀略事件である。跡目を継いだ張学良は,28年末,北洋時代の五色旗に替えて国民政府の国旗である青天白日旗を東北全域にかかげさせ(易幟(えきし)),ここに中国全土の統一が完成した。のち29年6月,国民党は,北京に客死して以来西山碧雲寺におかれていた孫文の遺体を,完成したばかりの南京紫金山麓の中山陵にうつし,世界各国代表参列のもとに盛大な典礼を挙行した。…

【北伐】より

…25万の国民革命軍は途中で日本の山東出兵(済南事変)による妨害をうけたが,6月には安国軍をひきいる張作霖を走らせて北京を占領した(占領と同時に北京は北平に,直隷省は河北省に改名された)。日本は無用となった張作霖を爆殺して東北の支配をはかったが,子の張学良が同年末〈易幟(えきし)〉(旧来の国旗五色旗を青天白日旗にかけかえて国民政府の支配に服するとの意思を表示すること)を断行して北伐は完了をみた。国民革命【狭間 直樹】。…

【北洋軍閥】より

…張馮の連合もすぐ破れ,26年春,形勢不利を悟った馮玉祥の国民軍が北京を退出するにおよび中央政府は張作霖の手中に帰した。そして国民革命軍の北伐に連戦連敗した張作霖が28年6月,満州へと逃げ帰って北洋軍閥の時代は終わるのであるが,さらにその子張学良が同年末に〈易幟(えきし)(中華民国政府の国旗五色旗をおろし,新しい国民政府の国旗青天白日旗を掲げること)〉を断行したことにより,北洋軍閥はいったん消滅し,新たに国民党軍閥の一部となるのである。軍閥【狭間 直樹】。…

※「張学良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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