中国の軍人,政治家。東北地方を地盤とする軍閥,張作霖の長男。1919年東三省武備学堂卒業。28年6月,張作霖が日本の関東軍の謀略によって爆殺されると,その後を継いで30歳で東三省(遼寧,吉林,黒竜江の3省)の実権を握った。彼は日本の期待に反して蔣介石の南京国民政府に忠誠を誓い,同年12月,東三省は国民政府の行政下に入っていっせいに青天白日満地紅の中華民国国旗を掲げた。しかし20余万の東北軍は,その後も依然として張学良個人に忠誠を保ちつづけた。31年9月18日,日本の東北地方への武力侵略(満州事変)とともに東北軍はほとんど無抵抗で関内へ撤退,その後,熱河方面への侵略が露骨になっても,麻薬におぼれた張学良は積極的行動を示さず〈不抵抗将軍〉とそしられるに至った。1933年に外遊し,34年麻薬中毒を克服して帰国した張学良に対して抗日の中心として期待が集まったが,張学良自身は蔣介石の国内統一を支持し,そのうえで東北地方から日本を撃退することを望んでいた。
しかし蔣介石の〈安内攘外〉(まず内を安んじたのち外にむかう)政策が,抗日運動の禁圧と共産党軍掃討に重点を置くにしたがって矛盾に苦しむようになった。34年以降,陝西省方面で紅軍との戦闘に動員されるうちに相手の政治的影響を受けた東北軍は,青年将校を中心に張学良に対して激しく抗日を迫り,張学良と蔣介石の間の矛盾はしだいに激化した。36年夏,張学良は周恩来と会見し,紅軍と抗日の秘密協定を結ぶに至る。同年12月,張学良は督戦にあらわれた蔣介石を西安に監禁し内戦の停止と一致抗日を迫った(西安事件)。これを機に国共合作が実現するが,張学良は蔣介石から官職を剝奪され,10年の禁錮刑を宣告された。以後,軟禁状態におかれた張学良は,その後も台湾の新竹郊外で外部との接触を禁じられた生活を送った。64年7月に台北発行の雑誌《希望》誌上に〈西安事変懺悔録・摘要〉が掲載されたが,ただちに回収された(香港の雑誌《明報》1968年8,9月号に転載)。
執筆者:春名 徹
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中国の軍人、政治家。東北の遼寧(りょうねい)省生まれで、軍閥・張作霖(ちょうさくりん)の長男。1919年東三省の武備学堂卒、軍事・銀行などの役職を歴任したのち、1928年に作霖爆死に伴い東北の実権を受け継ぎ、日本の圧迫に抗して南京(ナンキン)の国民政府による中国の統一に努めた。1931年の満州事変には抗日を主張したが蒋介石(しょうかいせき)の意見とあわず不戦のまま東北を去り、1933年には下野、外遊。帰国後は国共内戦の前線指揮にあたり、1935年には西北剿匪(そうひ)副司令となり、長征後の八路軍と対峙(たいじ)する間に、内戦停止・一致抗日を主張、1936年西安(せいあん)事件を起こして蒋介石を幽閉し停戦を主張要求した。蒋介石の釈放後、官職を剥奪(はくだつ)され10年の禁錮刑に処された。その後、長く自宅軟禁状態におかれていた。1994年以降はハワイに居住。
[加藤祐三]
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1901~2001
中国民国時代の軍人,政治家。遼寧省海城の人。奉天派軍閥張作霖(ちょうさくりん)の長男。若くして奉天軍を指揮し,北伐軍と戦う。1928年父が日本軍に爆殺されたのち,東北の全権を握り国民政府の統一を支持した。満洲事変では,「不抵抗将軍」といわれたが,内戦停止,一致抗日を求める世論に動かされ,36年蒋介石(しょうかいせき)を西安郊外に襲って監禁し,抗日体制の確立を迫った。この西安事件後裁判にかけられ,50余年間台湾で軟禁生活を送った。90年に名誉回復され,晩年はハワイで過ごした。
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1901.6.3~2001.10.15
中国の軍人・政治家。張作霖(さくりん)の長男。遼寧省出身。父が爆殺されたのち蒋介石(しょうかいせき)に接近,1928年国民政府傘下に加入。満州事変勃発後,33年下野し外遊。34年の帰国後共産軍討伐のため転戦するが,一致抗日の必要を認めて36年蒋介石を軟禁(西安事件),第2次国共合作の端緒を開く。事件後逮捕され,日中戦争中は貴州に,戦後も台湾で軟禁生活が続いたが,90年に名誉回復された。
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…中国で1936年12月12日,西安において発生した張学良による蔣介石監禁事件。日本の華北方面への侵略が激化していたにもかかわらず,蔣介石の国民党政権は,民族的な抗日の声に耳をとざして,共産党の掃討を優先し,そのうえで外敵と戦うという政策に固執していた。…
…日本で当時,満州某重大事件(張作霖爆殺事件)とよばれた大謀略事件である。跡目を継いだ張学良は,28年末,北洋時代の五色旗に替えて国民政府の国旗である青天白日旗を東北全域にかかげさせ(易幟(えきし)),ここに中国全土の統一が完成した。のち29年6月,国民党は,北京に客死して以来西山碧雲寺におかれていた孫文の遺体を,完成したばかりの南京紫金山麓の中山陵にうつし,世界各国代表参列のもとに盛大な典礼を挙行した。…
…25万の国民革命軍は途中で日本の山東出兵(済南事変)による妨害をうけたが,6月には安国軍をひきいる張作霖を走らせて北京を占領した(占領と同時に北京は北平に,直隷省は河北省に改名された)。日本は無用となった張作霖を爆殺して東北の支配をはかったが,子の張学良が同年末〈易幟(えきし)〉(旧来の国旗五色旗を青天白日旗にかけかえて国民政府の支配に服するとの意思を表示すること)を断行して北伐は完了をみた。国民革命【狭間 直樹】。…
…張馮の連合もすぐ破れ,26年春,形勢不利を悟った馮玉祥の国民軍が北京を退出するにおよび中央政府は張作霖の手中に帰した。そして国民革命軍の北伐に連戦連敗した張作霖が28年6月,満州へと逃げ帰って北洋軍閥の時代は終わるのであるが,さらにその子張学良が同年末に〈易幟(えきし)(中華民国政府の国旗五色旗をおろし,新しい国民政府の国旗青天白日旗を掲げること)〉を断行したことにより,北洋軍閥はいったん消滅し,新たに国民党軍閥の一部となるのである。軍閥【狭間 直樹】。…
※「張学良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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