榎井村(読み)えないむら

日本歴史地名大系 「榎井村」の解説

榎井村
えないむら

[現在地名]琴平町榎井

金毘羅村の東に位置する。南の五条ごじよう村に続く区域に出水が多い。江内とも書く。なかノ町の北部に戦国期石川将監の拠った石川いしかわ城跡がある。天正一六年(一五八八)七月一八日の生駒一正寄進状(金刀比羅宮文書)で「中之郡小松江内村」が金毘羅大権現に寄せられ、慶長一〇年(一六〇五)九月四日の生駒一正宛行状(遠山文書)で「中郡小松ゑない村」一〇〇石が遠山吉兵衛に与えられている。寛永一八年(一六四一)から同一九年に幕府領となって池御料に充てられる。寛永国絵図では子松こまつ庄三千三三一石余に属した。寛永六年の免状(興泉寺文書)では高四二五石余、免三ツ三分、定米一四〇石余。同一八年の満濃池水掛高帳(鎌田博物館蔵)では高八二二石余。村内に金毘羅領四八石余があって境が入組んでいたので、延宝二年(一六七四)に争いが起こり、高松藩郡奉行が調査し、翌年土地替えを行って絵図を作った。正徳三年(一七一三)にも争いが起こり、高松藩、池御料、社領の役人が調査、翌年境目に塚を築き、先の絵図を改訂した。その後享保七年(一七二二)に絵図を改訂し、同一〇年に境目塚の修築を行った。

榎井村
えのいむら

[現在地名]頸城村榎井

中江なかえ用水に沿い、東に船津ふなつ村、南に島田しまた新田、北に松橋まつはし村がある。低湿地中のわずかな微高地。弘治三年(一五五七)一〇月一八日の本庄宗緩等五名連署安堵状写(康泰寺文書)により「頸城郡夷守郷榎井之保内大高山湧光寺領」が広泰こうたい寺に寄進され、さらに永禄二年(一五五九)一二月二六日に安堵されている(「上杉老臣連署寺領安堵状」歴代古案)。天正一四年(一五八六)から同二〇年の間に記されたと思われる正月二八日の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に「ヱメイ村」とみえ、本願寺へ五〇疋(五〇〇文)懇志として送っている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「御料所高梨分柿崎分光泰寺分江縫村 中」とみえ、本納七九石一斗五升九合・縄高一九一石一斗八升五合、家二四軒・六一人とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報