高松藩 (たかまつはん)
讃岐国(香川県)香川郡高松に藩庁を置いた家門の中藩。1587年(天正15)讃岐15万石の領主として入封した生駒氏は,生駒騒動により1640年(寛永17)出羽国矢島に1万石で改易された。2年後に東讃岐12万石の藩主として三家の水戸頼房の子松平頼重が生駒氏の築いた高松城に入り,以後廃藩置県にいたる。高松藩は44年(正保1)城下町の上水道の整備,翌年の大干ばつに際して約400ヵ所の溜池の築造,65年(寛文5)から7年間にわたる領内総検地,67年の山田郡沿岸部の新田干拓などによって,領内支配の基礎を整えた。元禄期(1688-1704)には法令廿一ヶ条,条目十七ヶ条をはじめ御勘定条目など藩法を整備した。しかし1743年(寛保3)ごろには藩の財政難が慢性化したため倹約の徹底を行うとともに,55年(宝暦5)山田郡西潟元に塩田を築いて収入増加をはかり,57年には藩札を発行した。79年(安永8)に藩校講道館を創設した。このころ領内物産の奨励を行ったが,とくに砂糖製造の研究が続けられ,18世紀末の寛政の初めにはその製造に成功した。1801年(享和1)窮乏家臣の救済と領内物産奨励のため資金として藩札を貸し付けたが,これを享和新法という。このとき城下の東浜を埋め立てて問屋商人を移住させ,領外取引の中心地とした。21年(文政4)ごろ再び悪化しはじめた藩財政難の解決のため,29年の坂出塩田の築造,32年(天保3)の江戸・大坂商人への3年間借金返済の猶予,領民への御用金の賦課などを行ったが,35年には砂糖為替金の貸付けによる領内産砂糖の流通統制に成功し,以後藩財政は立ち直ったという。天保の飢饉では,1834年に米の安売りを要求して坂出村の新開で百姓一揆が起こった。68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦では幕府軍に従っていたため一時朝敵となった。時の執政松崎渋右衛門が69年9月に藩士らに殺害された事件は,明治初年の高松藩の混乱を象徴する事件である。
執筆者:木原 溥幸
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高松藩
たかまつはん
讃岐(さぬき)国(香川県)香川郡に置かれた藩。1587年(天正15)生駒親正(いこまちかまさ)が豊臣(とよとみ)秀吉より讃岐一国17万3000石を与えられ入封。以後4代高俊(たかとし)のとき生駒騒動が起き出羽(でわ)国(秋田県)矢島に転封された1640年(寛永17)まで50余年間生駒氏が在封した。1642年、水戸藩主徳川頼房(よりふさ)の子松平頼重(よりしげ)が入封し、東讃岐12万石を領す。親藩。松平氏による時代を通常高松藩とよぶ。頼重は頼房の長男であったが、水戸藩は次男光圀(みつくに)が継いだ。そこで光圀は長子頼常を高松藩主に、頼重の子綱條(つなえだ)を水戸藩主とした。初代頼重はまず城下町形成を図り、街の北東部20か町に水道を敷設し、侍屋敷は南西部に、町屋は南東部に集めた。現在高松市内にみられる丸亀(まるがめ)町、鍛冶屋(かじや)町、紺屋町、大工町、瓦(かわら)町などはこの時代の名残(なごり)である。また各地に溜池(ためいけ)400余を築造、海岸の埋立て、屋島(やしま)新田の開設を行うなど藩政の基礎を固めた。2代頼常も藩財政の確立を図り、1696年(元禄9)法令21か条を制定して藩の基本方針とした。5代頼恭(よりたか)は砂糖製造を奨励したため、これ以後急速に普及した。砂糖とともに綿、塩の生産も盛んで、この3品をもって「讃岐三白」とよんでいる。これらは高松藩の大きな財源であった。とくに塩の生産は地理的、気候的条件にも恵まれているため、化政(かせい)期(1804~30)以降塩田が急激に開拓され、増加した。久米(くめ)栄左衛門(通賢(みちかた))によって開かれた坂出(さかいで)塩田は、讃岐塩田のなかでもとくに有名であり、近年まで製塩が行われ全国一の生産高を誇った。また文政(ぶんせい)(1818~30)ごろから始められた漆器は、伝統的産業の一つとして現在に引き継がれ、讃岐漆器として有名である。藩主松平氏は11代続き、廃藩置県に至る。
[橋詰 茂]
『『新修高松市史Ⅰ~Ⅲ』(1964~69・高松市)』▽『荒井とみ三著『高松繁昌記』全5巻(1980・歴史図書社)』▽『松浦正一著『高松藩祖松平頼重伝』(1964・松平公益会)』
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たかまつはん【高松藩】
江戸時代、讃岐(さぬき)国香川郡高松(現、香川県高松市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は講堂館。1587年(天正(てんしょう)15)、四国を平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が家臣の生駒親正(いこまちかまさ)に讃岐1国17万3000石を与え、以後約50年間にわたり生駒氏が在封(ざいほう)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いでは東軍に味方して所領を安堵(あんど)されたものの、40年(寛永(かんえい)17)に起きた御家騒動(生駒騒動)により改易(かいえき)、出羽(でわ)国矢島藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となった。このとき讃岐国は4分割されたが、その一つ東讃岐12万石に、水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)の長男松平頼重(よりしげ)が常陸(ひたち)国下館(しもだて)藩から入封(にゅうほう)、42年に親藩の高松藩が再成立した。以後明治維新まで松平氏11代が続いた。代々藩主は城下町を整備し、約400もの溜池(ためいけ)を築造したほか、砂糖製造の奨励や新田開発、塩田開発を行うなど藩財政の安定化をはかったが、天保の飢饉では坂出村で百姓一揆が起きた。戊辰(ぼしん)戦争では幕府軍についたため一時朝敵とされた。1871年(明治4)の廃藩置県により、高松県を経て香川県となった。
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高松藩【たかまつはん】
讃岐(さぬき)国高松に藩庁をおいた親藩。藩主は生駒(いこま)氏が1640年改易後,徳川御三家(ごさんけ)水戸家藩主の子,松平頼重(よりしげ)が入封,讃岐国東部で高12万石を領知。同氏が明治まで在封。高松城跡は国指定史跡,北の丸の月見櫓・渡櫓などは重要文化財。
→関連項目讃岐国|高松城
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高松藩
たかまつはん
江戸時代,讃岐国 (香川県) 高松地方を領有した藩。生駒氏 17万 1600石のあとをうけて,寛永 19 (1642) 年水戸藩主徳川頼房の子松平頼重が 12万石で入封,11代続いて廃藩置県にいたった。家門,江戸城溜間詰。
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高松藩
讃岐国、高松(現:香川県高松市)を本拠地とした藩。天正年間、生駒親正(ちかまさ)が豊臣秀吉から讃岐一国17万3000石を与えられて入封。生駒騒動により生駒氏が改易された後、4分割された讃岐国のうち東讃岐に水戸藩主・徳川頼房の子、松平頼重(よりしげ)が入封。以後、幕末まで松平氏が治めた。
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世界大百科事典(旧版)内の高松藩の言及
【生駒騒動】より
…讃岐高松藩[生駒氏]に起こった御家騒動。1621年(元和7)生駒高俊は幼少にして父正俊の跡をついだ。…
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