香川県まんのう町にある日本最大のかんがい用ため池。700年代初頭に築造された。818年に決壊し、復旧に着手したものの、改修が進まず、空海が責任者(別当)として派遣され、わずか3カ月足らずで面積81ヘクタールの大池を完成させたといわれる。その後も決壊や修復を繰り返し、現在は139ヘクタールのため池になった。
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満濃町の南部にあり、池の南西部の谷の一部が現
築造については、伊予の御村別の忍尾別君が讃岐に入って那珂郡の南部を開拓して
「日本紀略」や「弘法大師行化記」などによると、弘仁九年(八一八)堤防が決壊して、同一〇年に路真人浜継が築池使に任命されて来讃した。国司清原夏野は讃岐出身の空海を迎え、祈祷会を修して風雨順時五穀成就を祈願し、なお堤防築造の監督を願いたいと太政官に上申した。この願いは許可されなかったが、国司は同一二年四月重ねて申請し、五月二七日に許可する旨の太政官符が発給されて、空海は沙弥一人・童子四人を従えて下った。金倉川を堰止めて大池を造るため、池の堤防を扇形(アーチ状)に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋(台目)を設けるよう指示したという。六月に工事が再開されると人夫は雲のように集まり、空海は堤の東の岩山に壇を設けて護摩修法を行い、金倉川を短期間に堰止める大工事が進められた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
香川県の中部,丸亀平野南部の金倉川上流にある溜池。仲多度郡まんのう町に属する。この地方は古くから日照りの害が深刻で,現在までに約2万もの溜池がつくられてきた。その中で最大のものが満濃池で,農業用溜池としては日本最大である。堤長155m,堤高32m,満水時面積1.4km2,有効貯水量1540万t。6月中旬から9月にかけて放水され,丸亀平野4600haの水田を灌漑している。補助水源として土器川上流と財田(さいた)川上流からそれぞれトンネルで分水している。
執筆者:坂口 良昭
古くは満農池,万農池,万能池などとも記し,十千池(とちのいけ)ともいう。《讃岐国万農池後碑文(さぬきのくにまんのうのいけじりひぶん)》(1020)によると,8世紀初めに讃岐守であった道守朝臣(みちもりのあそん)某によって築造されたとあるが,詳細は不明。818年(弘仁9)に堤が大破したため,821年に当国出身の空海を在地の郡司層らの要請をいれて派遣し,農民を動員して修築させた。その後も決壊,築堤が繰り返され,851年(仁寿1)には讃岐権守弘宗王が大規模な修築を行った。その後1022年(治安2)にも修補されたが,1184年(元暦1)に決壊したのち永く放置され,池内に村ができるほどであった。
執筆者:亀田 隆之 その後,近世初期の寛永(1624-44)初年の再築まで四百数十年間,池跡は500石ばかりの山田となり,池内村と称し地頭矢原氏の領となっていた。修築の功労者は当時の領主生駒氏の縁戚であった津藩藤堂氏の臣下で土木巧者の西島八兵衛である。1854年(安政1)にまたまた決壊し70年(明治3)にようやく再築された。
満濃池は丸亀平野のほぼ全域を潤すとはいえ,池に近い上流の〈上の郷〉の15ヵ村が尺八樋(しやくはちひ)(樋)5個の樋穴のうち,下から二番櫓以下の水を独占し,水が必要な全期間を通じて灌漑を受けうるのに対して,より広い面積の〈下の郷〉諸村は,水が上流から順次下流(北部)の村々に及ぶまでに約1ヵ月を要する。したがって地図上にも明らかなように下の郷ではそれぞれ無数の皿池を掘り,その貯水で田植を実施し,それらの池の水がなくなったころに下ってくる満濃池の水をたくわえるというのが実態で,下の郷にとっては満濃池は親池にすぎなかった。池の築造にまつわる歴史的関係と,上・下流の位置的関係に由来する現象である。
執筆者:喜多村 俊夫
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香川県中南部、仲多度(なかたど)郡まんのう町にある溜池(ためいけ)。大宝(たいほう)年間(701~704)に讃岐(さぬき)国司道守朝臣(みちもりのあそん)が築いたという。その後決壊を繰り返し、空海(弘法(こうぼう)大師)が築池別当として派遣され821年(弘仁12)修築した。しかしその後も破堤を繰り返し、鎌倉時代から江戸初期までは放置され、池の中に村落ができたという。1628年(寛永5)高松藩主生駒高俊(いこまたかとし)のとき、津藩から招かれた西島八兵衛(はちべえ)が満濃池を再築した。その後数回のかさ上げ工事を行い、1959年(昭和34)には湛水(たんすい)面積138.5ヘクタール、貯水量1540万立方メートル、周囲約21キロメートルの大溜池となった。現在は隣接する土器(どき)川、財田(さいた)川より導水し、不足する水源を補っている。1998年(平成10)には、満濃池の北東岸丘陵地に国営公園の讃岐まんのう公園が開園した。
[新見 治]
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香川県まんのう町にある全国有数の農業用の溜池。金倉川の浸食によりできた谷をせき止めた池で,現在,堤防の長さ約155m,面積約1.4km2に及び,水田約3200ヘクタールを潤す。讃岐国那珂郡真野郷にあるため,もともとは真野池とよばれたが,万能池・満濃池などと記されるようになり,「まんのういけ」とよばれるようになった。満濃太郎の愛称をもつ。大宝年間(701~704)に築かれたらしいが,818年(弘仁9)に大きく決壊し,空海が再興したという。「今昔物語集」には海とみまごうほどの大きな池で,多くの田がその恩恵をうけており,人々の喜びは限りないとされた。しばしば決壊したが,修復され現在に至る。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…近世になると大きな溜池には特定の家が池守に世襲的に任命されることが一般化した。たとえば,讃岐の満濃池は近世初頭に再興されたが,それに協力した土豪の矢原氏が代々池守となり,池守給を支給されていた。河内の狭山池では,近世初期の再興に下奉行として派遣された田中氏が,工事完了後現地に残されて池守に任命され,近世を通じて世襲した。…
…このように地方官の努力によって修築された池も多く,地方民の頑迷を諭して成就した例も少なくない。空海による満濃池修築(再築)の伝えは著名である。上述の明るい面の反対に,築造をめぐる地方官の怠慢や腐敗を示す事例もいくつか残っている。…
…埋樋は単に池堤の土中に横に伏せるものである。尺八樋は,堤の内側の傾斜に従って斜め(竪)に取り付け,樋に直径10cm内外の穴を数個(例えば満濃池の旧樋は5個),間を隔てて最下部の穴から溜水の最底部までの全水量を流出できるようにしたもので,不使用のときは穴に栓を差し込んでおく。必要に応じて溜水の多いときは最上部の穴から,以下水量の減少とともに漸次下部の栓を開いていく装置で,一時に多量の水を要するときは残らず栓を開く装置である。…
※「満濃池」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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