横住村(読み)よこずみむら

日本歴史地名大系 「横住村」の解説

横住村
よこずみむら

[現在地名]浦川原村横住

保倉ほくら川の支流、北流する高谷たかたに川の両岸に立地。高谷川の下流北方は熊沢くまざわ村、上流南は真光寺しんこうじ村。松之山まつのやま街道が当地で高谷川沿いの道と交差する。松之山街道に沿い峠越えで、西は法定寺ほうじようじ村、東は牧野まきの(現安塚町)へ通じる。天文一五年(一五四六)一一月一五日の吉田英忠寄進状(賞泉寺文書)に「神矢之保之内上横角名・同中名」とみえ安塚やすづか(現安塚町)賞泉しようせん寺に寄進されている。神谷かみや保は神谷(現牧村)に比定され、当村もその範囲に含まれていたと思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「御料所宇津江扱直嶺分上横住村 上」「御料所(宇津江)□□(法定)寺分直嶺分下横住村 □」とあり、上横住村は「本納拾□石弐斗、縄ノ高(四カ)拾弐石□斗六升四合、家間、四十七人」で、下横住村は「本納拾石」・縄高二五石四斗三升四合、家一一軒・四〇人。


横住村
よこずみむら

[現在地名]庄川町横住

湯山ゆやま村の北東うし岳の北西山腹にある。里山さとやま七ヵ村の一つ。元和五年(一六一九)の家高新帳に横住とみえ、金屋組に属し役家数四。正保郷帳では高五八石余、田方二反・畑方三町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七〇石・免三ツ七歩。小物成は山役四五匁・蝋役一匁・漆役一匁(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数一一(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


横住村
よこずみむら

[現在地名]今立町横住

寺地てらじ村の東にあり、服部はつとり谷の谷奥に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「横角村」と記される。慶長三年の越前国服部内横住村御検地帳(内藤家文書)によると村高は五四五石。元禄郷帳によると清根きよね村・相木あいのき村・服部河内はつとりこうち村の三村が分離し、横住村は一九二・一四石となった。宝永五年(一七〇八)の村明細帳によると本百姓二五戸・水呑二九戸・寺(真勝寺)一ヵ寺・門前三戸の計五八戸、人口は男一一九人・女九六人計二一五人で、うち二八人が下男・下女であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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