横堀町(横堀村)
よこぼりまち(よこぼりむら)
[現在地名]雄勝町横堀
奥羽山脈と出羽丘陵の南北に走る断層谷に発達した街村。雄物川と役内川の合流点の南、羽州街道と鬼首峠から仙台藩領へ通ずる脇街道の分岐点に位置する。北は小野村、南は寺沢村、西は下院内村と接する。
「続日本紀」天平宝字三年(七五九)九月二六日条にみえる「横河」は横堀・寺沢辺りに比定されている。南山麓の熊野神社境内には元亨二年(一三二二)銘の磨崖碑、嘉暦元年(一三二六)銘の自然石の板碑が残る。安土桃山時代には山の頂上近い標高約三〇〇メートルの辺りに草井ヶ崎城が築かれ、小野寺氏の配下が拠ったが、文禄二年(一五九三)最上氏との合戦で落城したという(奥羽永慶軍記)。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に横堀村とあり、高の記載はない。高は寺沢村に含まれていたもので、享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保寺沢村、同絵図横堀町郷形有、寛文貞享横堀村、元禄宝永享保横堀町と記、但諸帳両村高を纏候付、今度郷村帳横堀寺沢村と記、御黒印両村江被下、郷帳江も両村記」と記す。
横堀町
よこぼりまち
[現在地名]米沢市南原横堀町
笹野町の東に位置する下級家臣(原方衆)屋敷町。猪苗代町と石垣町を結ぶ横道に沿う両側町。南原五町の一。明和六年(一七六九)の原方屋敷絵図(市立米沢図書館蔵)によれば家数四五。弘化三年(一八四六)の屋敷割帳では屋敷数三二・空屋一三。明治二〇年(一八八七)の「地方行政区画便覧」には南原横堀町とみえる。
横堀町
よこぼりちよう
[現在地名]津和野町町田
外濠が南で西に折れ津和野川に至るので横堀と称した。この堀沿いの東西道に沿う家中屋敷町。津和野川には筋違橋が架かり、御菜園所に至る。もとは町田村の湿地帯であった。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では下級家臣屋敷九軒がある。ただし外濠の東側の三間街道沿いの鳴滝通にぶつかる地までには、畳屋・紺屋・綿屋など職人や、えびす屋・真砂屋など屋号をもつ商人が居住。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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