寺沢村(読み)てらさわむら

日本歴史地名大系 「寺沢村」の解説

寺沢村
てらさわむら

[現在地名]千厩町磐清水いわしみず

濁沼にぐりぬま村の北にあり、南北を低丘陵で区切られ、中央を寺沢川が東流、東端で千厩川に注ぐ。古くは長沢ながさわの里とよばれていたのが永沢ながさわに転じ、さらに地内永沢えいたく寺に関係づけて寺沢になったとも、寺沢某という侍が住んでいたのにちなむとも伝える。天正二年(一五七四)三月二九日の葛西晴信知行宛行状写(日形増子文書)に「岩井郡寺沢村」とみえ、本吉大膳太夫の反乱の際の戦功により、当村五千刈が加増分として小野寺四郎左衛門に与えられた。同一六年六月七日には浜田安房守の乱での軍功により、葛西晴信から金野右膳に当村水田二〇〇刈の地が宛行われたという(「葛西晴信知行宛行状写」奥玉金野文書)

寛永一〇年(一六三三)には寺沢村内一貫六五七文などが白石与吉に加増された(「伊達政宗領知黒印状」伊達家文書)


寺沢村
てらさわむら

[現在地名]雄勝町寺沢

役内やくない川の下流右岸に位置し、鬼首おにこうべ峠へ通ずる脇街道に沿う。北は横堀よこぼり村、南はなか村に接する。

ほりうちの田地に嘉暦二年(一三二七)銘、田中たなかの路傍に応永七年(一四〇〇)銘の割石板碑があり、開村の古さがうかがわれる。「奥羽永慶軍記」によれば、中世末には最上氏の家臣佐々木典膳の所領となっていたが「遠所なれば、郎等大友右京といふ者を代官として寺沢村にぞ差置」と伝える。「梅津政景日記」元和四年(一六一八)一一月一五日条に、

<資料は省略されています>

とあり、当村を含む三ヵ村の年貢米が院内銀山に納められている。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に寺沢村八一七石とある。


寺沢村
てらざわむら

[現在地名]豊橋市寺沢町

小松原こまつばら村の西に連なる遠州灘沿いの村。中世末期には東観音とうかんのん寺領が存在した。天文一四年(一五四五)の大郎衛門等売券(東観音寺蔵)に「寺さわのうち」として寺沢の大郎衛門なる者が東観音寺へ土地を寄進している。永禄五年(一五六二)の福島春興寄進状(同寺蔵)には、東観音寺への寄進地として二貫文の地が確認できる。これは「坪出郷并御子沢谷根又原」の地で「寺沢村左近右衛門名之内」とある。


寺沢村
てらさわむら

[現在地名]中富町寺沢

中山なかやま中一二ヵ村の一つで、夜子沢よごさわ村の北、手打沢てうちざわ村の南、それぞれ十数町の所にある。東は断崖で富士川に臨む。断崖上には菅沼定政の居城跡があり(近世には畑場、現在は中学校敷地)、すぐ南に切石きりいし宿がみえる。「甲斐国志」によれば、寺沢村は「慶長郷村帳ニ明沢村ト記」されているといい、村名の由来について「廃寺跡ヲ村名ニ称ス」と記している。慶長古高帳の高八三石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)検地帳(県立図書館蔵)によれば高一二七石余、反別田六町五反余・畑三〇町余・屋敷一反余、屋敷数一二。高請地のほとんどは畑方であった。当村は駿州往還沿いにはないが、伝馬宿である切石村に加宿のため毎月八日から一四日までの七日ずつ、一日に馬四匹ずつ出していたため、四一石余の御伝馬役引があった(文政一一年「村明細帳」河西義一家文書)


寺沢村
てらざわむら

[現在地名]五泉市寺沢一―四丁目

早出はいで川より分岐する郷屋こや川左岸の低湿地にあり、東は川瀬かわぜ村、南は吉沢よしざわ村に接する。中世は菅名すがな庄に属し、建武三年(一三三六)一一月一日の足利尊氏御教書写(金沢市立図書館蔵)に「菅名庄内寺沢条」、室町後期の蒲原郡段銭帳(米沢市立図書館蔵)には「不作有 拾七町五段 同庄(菅名庄)寺沢条長尾三河入道方」とある。慶長一九年(一六一四)の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では三本木組に属し、正保国絵図には五七〇石余、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高三八一石二斗余とある。


寺沢村
てらさわむら

[現在地名]君津市寺沢

岩出いわで村の南東、小櫃おびつ川中流左岸に位置する。近世中期以降舟運が盛んになり、新河岸が設けられた(粕谷家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二六四石。元禄郷帳では高二八九石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高三四四石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数四八。安政三年(一八五六)百姓が安行船を一艘もち運送を行っていた(粕谷家文書)


寺沢村
てらさわむら

[現在地名]足助町追分おいわけ

ともえ川右岸の山麓の傾斜地に位置し、巴川の河岸段丘上の東に隣接する足助村、西の近岡ちかおか村、南の巴川を隔てた岩神やがみ村などより一段高い場所に立地する。足助村から西に通じる伊保いぼ街道・七里しちり街道が村内を通る。慶長五年(一六〇〇)鈴木重次知行地となり、明治まで鈴木氏の支配であった。天保九年(一八三八)の三河国賀茂郡九ケ村明細帳(深見保家文書)によると、村高八石、年貢延口米ともに五石四斗。


寺沢村
てらさわむら

[現在地名]井川町寺沢

井川中流の河岸段丘上に位置する。東は大麦おおむぎ村、西は葹田なもみだ村、南西は狭小な平地を隔てて赤沢あかさわ村に接し、北は低丘陵地である。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「三百四拾五石三斗九升二合 いない村 うたミ村 大森村 とほら岡村 寺沢村 赤沢村」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では四一石とみえ、享保七年(一七二二)の秋田郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県立博物館蔵)では葹田村の支郷となっている。


寺沢村
てらざわむら

[現在地名]双葉町寺沢

南東は松倉まつくら村、北東は渋川しぶかわ村に接する。村名は仲禅ちゆうぜん寺があったことによるという。明暦二年(一六五六)渋川村より分村したといい、同年の検地高六四石余(相馬藩政史)。元禄郷帳では寺沢新田とあり、高一三二石余。天明三年(一七八三)の家数八、嘉永元年(一八四八)の家数四(検地石高収納戸口等調)。仲禅寺は大同二年(八〇七)徳一の建立、天文一五年(一五四六)宗真の中興と伝える。もと曹洞宗、現在は単立で、昭和二三年(一九四八)浪江なみえ高瀬たかせに移る。


寺沢村
てらざわむら

[現在地名]朝日村寺沢

飛騨川が西から北へ大きく曲折する辺りの右岸にあり、北東は青屋あおや村。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→小谷村。元禄検地反歩帳の高一四石余、田八反余・畑四町一反余。「飛騨国中案内」によると免は四割四分六厘、家数一六はすべて百姓。寛政一二年(一八〇〇)には田四石余・畑一三石余、うち新田高一石余、反別田八反余・畑五町二反余、家数九・人数五〇、馬六(村明細帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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