日本大百科全書(ニッポニカ) 「櫛羅藩」の意味・わかりやすい解説
櫛羅藩
くしらはん
大和(やまと)国葛上(かつじょう)郡櫛羅(奈良県御所(ごせ)市櫛羅)周辺を領した譜代(ふだい)小藩。1万石。1681年(天和1)永井直圓(なおみつ)が1万石で入封、葛下(かつげ)郡新庄(しんじょう)に陣屋を置き新庄藩と称した。前年(延宝8)6月、4代将軍徳川家綱(いえつな)法会の際、永井尚長(なおなが)(丹後(たんご)宮津城主)が内藤忠勝(ただかつ)(志摩鳥羽(とば)城主)に殺害され、両者ともに除封となったが、幕府は永井氏の旧功を惜しみ、弟の帯刀(たてわき)直圓に名跡を継がせたのである。7代直幹(なおもと)のとき新庄の南3キロメートルの櫛羅に陣屋を移し、櫛羅藩となった。9代直哉(なおちか)のとき1871年(明治4)廃藩、櫛羅県を経て奈良県に編入された。なお、永井氏以前、桑山氏が新庄にあったが、その改易(1682)と永井氏入封には重複期間があり、疑問が残るが、いまだ定説をみていない。
[平井良朋]
『『御所市史』(1965・御所市)』