正立寺(読み)しようりゆうじ

日本歴史地名大系 「正立寺」の解説

正立寺
しようりゆうじ

[現在地名]鯖江市落井町

落井おちいの南部にある。中野山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もと京都今小路常楽いまこうじじようらく(現京都市下京区)末寺で、開基の兼隆(賢心)は本願寺連枝の常楽寺実乗の弟。正立寺記録によれば、兼隆は朝倉氏滅亡後、府中ふちゆう(現福井県武生市)の城主富田長繁に捕らえられて府中板屋の牢に幽閉されたが、天正二年(一五七四)二月の一向一揆蜂起によって救出され、織田信長越前攻略に対しては一揆の将として鉢伏はちぶせ(現同県今庄町)に立てこもったらしい。同年八月二〇日の大町専修寺賢会の書状(勝授寺文書)に、鉢伏城守備の五ヵ寺のなかに「今少路」とみえるのが、この兼隆にあたるようである。


正立寺
しようりゆうじ

[現在地名]熊本市横手一丁目

高麗門外こうらいもんがいにあり、北は瑞光ずいこう寺、南は高麗門から旧横手よこて村・戸坂とさか村に通ずる道路に、東は土居・堀に、西は道を隔てて長国ちようこく寺に接する。久成山と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。「国誌」に「寛文二年常照院日禅上人開基之、寺地三反三畝、元禄十四年ヨリ免許之、寺中三十番神、七面堂、大黒天堂アリ」と記している。しかし明暦(一六五五―五八)頃の絵図には、西の中正ちゆうしよう院に接して正立寺が記され、開基は寛文二年(一六六二)をさかのぼると推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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