武田村(読み)たけだむら

日本歴史地名大系 「武田村」の解説

武田村
たけだむら

[現在地名]加世田市武田・麓町ふもとちよう白亀しらかめなど

現加世田市北部の中央部から西部にかけて位置する。村の北東部を加世田川が北東流し、別府べつぷ城跡の周辺に加世田郷の麓集落が形成されていた。北東は川畑かわばた村、北は別府田間べつぷたま村・地頭所じとうしよ村・唐仁原とうじんばら村、西は小湊こみなと村など、南は津貫つぬき村・内山田うちやまだ村に接する。村の南西端、津貫村、大浦おおうら(現大浦町)との境に長屋ながや(五一三・一メートル)がそびえる。鴻巣くるす(現在はグルス)屋地やち(現在はヤジ)愛宕あたご貝掛かいがけ中野なかの柿本かきもと橋口はしぐち中村なかむら郷之丸ごうのまる出原いではら内布うちぬの鮎川あゆかわなどの集落がある。寛政一二年(一八〇〇)書写の諸郷村附並浦附(県立図書館蔵)には竹田村とみえる。

武田村
たけだむら

[現在地名]勝田市武田・ほん町・もと町・いずみ町・中央ちゆうおう町・おもて町・春日かすが

那珂川の左岸に位置し、北は外石川そといしかわ村。「和名抄」に那珂郡武田郷が載る。「新編常陸国誌」は「按ズルニ、今ノ武田村コレナリ、コノ村ノ北ニ菅谷村アリ、其地ニ不動院ト云フ密寺アリ、武田山ト号ス、コノ辺凡テ武田郷ナルコト推シテ知ルベシ」として、武田・勝倉かつぐら堀口ほりぐち枝川えだかわ津田つだ市毛いちげ田彦たびこ稲田いなだ菅谷すがや(現那珂郡那珂町)の九村を武田郷とする。新羅三郎源義光の子義清は武田冠者と称したが、同書は、義清は常陸国「武田里」に住し「後甲斐国市河庄ニ移リ住ム」と記し、甲斐の武田氏がこの地から出たことを伝える。

武田村
たけだむら

[現在地名]神崎町武田

植房うえぼう村の南東に位置する。「和名抄」記載の香取郡健田たけだ郷の遺称地とされる。慶長四年(一五九九)の検地では高六〇一石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。寛永八年(一六三一)しん村を分村したという(香取郡誌)。承応二年(一六五三)検地帳(武田区有文書)では百姓四二・屋敷名請人三四。寛文五年(一六六五)の高辻四三九石余で、納米一四九石余(同文書)。元禄一一年(一六九八)旗本斎藤領から与力給知となり、新村と入会の地頭林一七町八反余を分割、三分の二を当村分とした(同文書)

武田村
たけたむら

[現在地名]韮崎市神山町武田かみやままちたけた

樋口ひのくち村の南、釜無川右岸に位置する。村の西部を徳島とくしま堰が流れ、南西は北宮地きたみやじ村。地内には甲斐武田氏の祖、信義の館跡があり、一帯には御庭おにわ御旗部屋みはたべや的場まとば具足沢ぐそくざわなどの地名が残っている。中世には武田郷として推移した。慶長古高帳では高二〇八石余、幕府領。ほかに大明神(諏訪明神、現諏訪神社)領二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報