殖栗郷(読み)えくりごう

日本歴史地名大系 「殖栗郷」の解説

殖栗郷
えくりごう

和名抄」伊勢本・東急本は「恵久利」と読む。「阿府志」は「此地ハ尼寺・内谷・矢野・延命一宮・佐那川内迄ナリ」として気延きのべ山東麓に連なる諸村および鮎喰あくい川を南に越えた一宮いちのみや(現徳島市)佐那河内さなごうち(現佐那河内村)比定する。「阿波志」は「今廃」とのみ記す。明治一八年(一八八五)編の名東郡郡誌、同一一年編の名東郡村誌は両者とも旧名東郡なか(現徳島市)の小字に殖栗とあるのを当郷の遺称であるとし、村誌は旧名東郡延命えんめい矢野やの・中・観音寺かんのんじ府中こうの各村(現同上)と旧名西みようざい西矢野にしやの(現同上)尼寺にじ内谷うちだに(現名西郡石井町)の各村をその比定地にしている(ただし佐那河内村と一宮村をこの郷から除外している)


殖栗郷
なくりごう

「和名抄」高山寺本は「名栗」と訓ずる。史料により「列栗」また「並栗」と記すものがあるが、同一郷であろう。

天平一五年(七四三)四月二二日付弘福寺田数帳(東京大学史料編纂所蔵)に列栗郷がみえ、戸主として「広庭・並栗臣族手巻・山背忌寸・日下部速広足・並栗臣族君・六人部連小坂・並栗臣族嶋足・並栗臣豊前」が記される。また正倉院丹裏古文書の天応元年(七八一)一二月六日付奥書に殖栗郷がみえる。下って安和二年(九六九)七月八日付法勝院領目録(仁和寺文書)に「久世郡列栗畠壱町八段佰八十歩」があげられ、この一町八段余は「六人部里」「春日部下里」「難田里」にわたって所在していた。


殖栗郷
えぐりごう

「和名抄」刊本に升栗、東急本・高山寺本に殖栗とある。訓は高山寺本に恵久利と付す。正倉院文書天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東大寺司牒に「賀茂郡殖栗郷五十戸」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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