佐渡国(読み)サドノクニ

デジタル大辞泉 「佐渡国」の意味・読み・例文・類語

さど‐の‐くに【佐渡国】

佐渡

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日本歴史地名大系 「佐渡国」の解説

佐渡国
さどのくに

佐渡は越後から約三〇キロ離れた日本海上の島である。正確な航路上の距離は新潟―両津間三二海里、直江津なおえつ(現上越市)小木おぎ(現小木町)間三六海里、寺泊てらどまり(現三島郡寺泊町)赤泊あかどまり(現赤泊村)二二海里である。佐渡島の周囲はおよそ二二七キロ、面積は八五七平方キロ、北東から南西に北半の大佐渡おおさど山地(北佐渡)、南半の小佐渡こさど山地(南佐渡)の二条の山地が走る。両山地の間に開けた地溝帯は国仲くになか平野とよばれ、平野の北東岸に両津湾、南西岸に真野まの湾が開ける。最も高い山は大佐渡山地にある金北きんぽく山で標高一一七一・九メートル。両山地から国仲平野に流れる水の大方は、国府こうの川に集まり真野湾に注ぐ。対馬暖流の影響を受けて海岸性の温暖気候で、竹・枇杷・椿・萱・棕櫚・車輪梅が自生する。冬の積雪量は越後と比べると少ない。

「古事記」「日本書紀」の国生み物語に佐度島さどのしま佐度洲さどのしまとあり、大八島国の一とみえる。「日本書紀」では億岐洲おきのしまと双生であるとする説がみえる。「さど」の地名の意味については「日本書紀通証」「古事記伝」などは狭門さどすなわち海路の狭い意味かと推測し、また佐渡の雑太さわた郡雑太郷と関連させる説もあるが、いずれも確説とはいいがたい。漢字表記としては記紀の「佐度」、六国史などの「佐渡」、正倉院文書の天平宝字六年(七六二)五月一七日造石山院所解案などには「佐土」とみえる。

原始

先土器時代の遺跡ではないかとされた佐和田さわた長木ながきの台地の礫核石器については結論が得られていないが、その頃にもこの島に人が住んだと考えられるようになってきている。縄文時代の遺跡は前期の終りに小木半島小木町の長者ちようじやだいら遺跡が現れる。土器は関東や石川県能登半島方面でみられる前期末の形式に似る。縄文中期の遺跡としては畑野はたの三宮さんぐう貝塚や真野町豊田の浜田とよたのはまだ遺跡から貝殻条痕を有する土器が出土する。こうした土器は越後・北陸方面には存在しないといわれ、貝殻条痕土器の出土する山陰地方との文化交流の存在が指摘されている。弥生文化の開始は中期末、ほぼ一世紀の頃からではないかとされる。もっとも普遍的になるのは後期の遺跡である。これらの遺跡は多く国仲平野の低湿地に分布する。代表的な遺跡としては金井かない町の千種ちぐさ遺跡がある。この遺跡からはタモアミが出土した。弥生時代の島の遺跡の最も顕著な特徴は、玉作遺跡の存在である。新穂にいぼ村下新穂字中江尻なかえじりなどの新穂玉作にいぼたまつくり遺跡から出土する土器は、北陸地方の石川県、さらに越後の柏崎市の下谷地しもやち遺跡と類似性をもつ。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐渡国」の意味・わかりやすい解説

佐渡国 (さどのくに)

旧国名。佐州。現在の新潟県の一部,日本海中の佐渡島

北陸道に属する下国(《延喜式》)。国生み神話に〈佐度洲(島)〉とある。大化改新(645)後に佐渡国となり,721年(養老5)雑太(さわた)郡より賀茂,羽茂(うも)両郡を分離させて3郡となり,743年(天平15)越後国に合併し,752年(天平勝宝4)に再び分立した。国府,国分寺は雑太郡にあった(現在の真野町)。《和名抄》によると田は3960町4段で,羽茂郡に9郷,雑太郡に8郷,賀茂郡に6郷があった。軍団には雑太団があり,駅路としては松崎,三川,雑太の3駅があった。大宝令以下では遠国として扱われ,また遠流の地として多くの流人が配流された。辺要の地として,越後国の軍団が廃止された後も佐渡の軍団は残され,甲冑等の武器が備えられていた。平安期にすでに金を産出することが知られていた。
執筆者:

史料の上で明確とされる新穂荘(《近江国日吉神社社領注進記》元応1年)を除いて佐渡は国衙領であった。中世になると荘園・国衙領に郷地頭が置かれたが,佐渡には相模国から本間氏,藍原氏,土屋氏,渋谷氏などが地頭に任命された。本間氏は羽茂木野浦,河原田,波多,雑太,久知郷,藍原氏は吉井郷,渋谷氏は加茂郷,土屋氏は新穂荘の地頭職に任ぜられた(それらの地域には同名字がひろく分布している)。南北朝期を過ぎると,これら地頭各家に関して譲状類が散見されるようになる。吉住本間氏の初代道照は1414年(応永21)に隠居分として利済庵をおこし(利済庵文書),慶宮寺大蔵経裏書によれば久知(くぢ)(城主)初代直泰は応永期(1394-1428)に成立したことがわかる。このように応永期ころから,各地域によって領主化した地頭層の上に形式的な守護がいたらしい(例えば斯波氏)。16世紀にはいって佐渡も戦国時代をむかえ,特に天文~永禄期(1532-70)から国人たちの間に領地支配をめぐって,はげしい興亡がくりひろげられた。今日佐渡にのこる城を一覧すると,新穂村一円に分布する平城(ひらじよう)(1町歩ほどの館地を水濠で囲んだもので,村殿の城といわれ,北方城のように別に山城を付属させるものもある)や平山城の河原田城,羽茂城など,かなりの城が原型をとどめている。これは1589年(天正17)上杉景勝によって征服され,その後城地が村共有地とされたことによる。

 佐渡は古代以来遠流の地として知られるが,特に中世には文覚,参議藤原公定,法然配流事件の法本房行空,順徳上皇,京極為兼,日野資朝,日蓮,観世元清などが流されている。

1589年佐渡を征服した上杉景勝は,従来国人・村殿のもっていた年貢徴収権を否定し,佐渡を御料所と家臣の給地にした。はじめ年貢は本間氏時代のそれを引き継いだが,92年(文禄1)に殿原百姓衆(名主層)から指出(検地)をとり,さらに97年(慶長2)上杉氏代官の河村彦左衛門が年貢の2割増を命じて混乱がおき,1600年はじめて全島的な検地を行って基準を統一した。この間,1598年に上杉景勝は会津に移封され,太閤蔵入地となり,江戸時代は天領となった。1601年には代官として敦賀の豪商田中清六が来国し,03年には代官頭の大久保長安が佐渡を支配して佐渡金山の開発を行った。13年4月長安の死とともに佐渡は大久保氏の手を離れ17年(元和3)鎮目市左衛門,竹村九郎右衛門をむかえて奉行制度が動きだした。佐渡奉行の政治は鉱山政策が中心で民政は第二義とされた。

 中期に至って矛盾は拡大することになる。まず,1693年(元禄6)荻原重秀によって実測検地が行われ多くの間人(もうと)層が本百姓として自立したが,それを契機に村内で長百姓と小百姓が内部対立をつよめる。すでに元禄期(1688-1704)からあらわれる村方騒動は1710年(宝永7)の巡見使訴願となり,年貢負担の村ごとの不公平をただし,永代名主を廃止せよという要求がもち出され,幕府は,結果的に定免制を実施し16年(享保1)永代名主を禁じた。やがて年貢増徴を画した幕府は検見取法を復活し48年(寛延1)5000石余,49年4000石弱の増米が実施されると,50年に寛延の一国越訴がおき,その後も67年(明和4)明和一揆(代官役宅の打毀),1838年(天保9)天保一国騒動と不安定な社会情勢がつづいた。最後の佐渡奉行鈴木重嶺(しげね)は維新の争乱をさけて早く佐渡を去り,組頭中山修輔は太政官に上書して,島の安寧のため旧奉行支配の継続を求めて許され,1868年(明治1)11月参謀奥平謙輔に島を手渡した。

江戸初期は,1600年の指出検地で佐渡の年貢およそ1万8000石,その後17年の屋敷検地を加えて2万2000石であった。やがて93年の検地で石高13万石余,年貢4万石余となり,幕末に及んだ。佐渡は金銀山を中心に国内経済が運営された。初期には牛馬,四十物(あいもの)(干物類)の他国売りが禁じられ,タバコの運上を増すため島内でのタバコ栽培も禁じられた。佐渡の国産物の他国出しが許されたのは1751年(宝暦1)で,寛延一国越訴の結果であったが,それ以後も佐渡産の物資は,金銀山での不足が目だてば他国出しは停止され,そのために他国向けの商品生産は組織化されることなく,他地域に遅れた。19世紀初頭の産物をみると,大坂向けは干イカ・筒鱈などの海産物,蝦夷地向けはあば縄・ぞうり・莚・わらじなどのわら細工,ざる・籠などの竹細工,簞笥・杉戸・膳棚などの木製品,栗・柿などで,わら・竹製品などがそうした物資のない蝦夷地に向けられたのである。1820年(文政3)幕府の田中葵園によって国産会所広恵(こうえ)倉がつくられたが,38年の一揆でその活動が停止された。佐渡は雪は多くないが,春の水不足のため二毛作ができなかった。江戸時代を通じて洪水,日照りによる凶作がみられ,飢饉としては1754-55年の飢饉が最も大きなものであった。生活は商品生産の未熟もあって自給自足の傾向が強く,織機などどこの家でも活動していた。

佐渡の文化芸能には,能,文弥人形,歌舞伎などがあるが,とりわけ能は,能舞台だけでも100余におよんだ。能(乱舞(らつぷ))は1604年,大久保長安が招いて佐渡に土着した常太夫・杢太夫にはじまり,やがて潟上城主の末裔が寛永中(1624-44)に乱舞師として島に帰り,佐渡宝生座として発展の基礎を築き,越後・出羽各地で興行した。

 元禄期から京・江戸に学んだ商人・地主が多い。島内の学校では文政年中(1818-30)相川の奉行所に付属した修教館,文政年間に新穂村に本間黙斎のつくった梨雨村舎,天保期(1830-44)に上野の人志鎌万輔(新井精斎)のつくった塾などが目だつ。

 神社は,中世以来本間氏が熊野社を勧請したため熊野社が多いが,村方では古くから諏訪社,白山社が大きい地位をしめていた。また,稲荷社がほとんどないことも佐渡の特徴といってよいだろう。寺は上杉氏が真言宗を保護したためもあって大きな寺領をもつものがあった。1600年,河村彦左衛門はそれまでの寺領を3分の1にけずって額を固定した。近世初頭,佐渡で基盤をつくった木食(もくじき)弾誓上人やその弟子但唱-長音(天台宗となる)-清眼-音阿とつづく木食派の活動も特異である。江戸時代佐渡の寺院は540ヵ寺を数えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐渡国」の意味・わかりやすい解説

佐渡国
さどのくに

現在の新潟県佐渡島の旧国名。北陸道に属する。佐渡は記紀のころより大八州(おおやしま)の一つに数えられているから、かなり古い時期に大和(やまと)朝廷の支配に属したと思われる。721年(養老5)佐渡は雑太(さわた)1郡から雑太・加茂(かも)・羽茂(はもち)の3郡に分けられた。いま真野(まの)に雑太城跡が、また、両津に加茂歌代(うたしろ)が、そして羽茂に羽茂本郷の地名が残る。それぞれ各郡家の置かれた所であろう。その後743年(天平15)佐渡を越後(えちご)にあわせたが、752年(天平勝宝4)にはまた旧に復した。759年(天平宝字3)初めて生江臣智麻呂(いくえのおみともまろ)が佐渡国司に任命され(新旧の国府跡が真野にある)、764年には佐渡国分寺(真野の国分寺)が建立をみた。そのころ佐渡の国津は松ヶ崎(畑野の松ヶ崎)とされ、駅路は三川(みかわ)駅(赤泊(あかどまり)の三川地方)を経て雑太駅(真野の雑太地方)に達した。中世に至り、承久(じょうきゅう)の乱(1221)で佐渡は北条得宗(とくそう)領となり、地頭職(じとうしき)を得た本間(ほんま)、土屋(つちや)、藍原(あいはら)、渋谷(しぶや)氏などが関東から入部し、各郷の地頭職をもって勢力を振るったが、とりわけ本間氏は有力で、半国殿(はんごくどの)とよばれた。また、佐渡は古代から流罪地として世に聞こえていたが、とくに中世には順徳(じゅんとく)上皇、日蓮上人(にちれんしょうにん)、京極為兼(きょうごくためかね)、観世元清(かんぜもときよ)(世阿弥(ぜあみ))など著名な人々がこの国に流された。

 やがて1589年(天正17)上杉景勝(かげかつ)は佐渡を攻め、その結果佐渡は上杉氏の領国となった。しかし1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉によって景勝は会津に移封され、1600年(慶長5)からは徳川家康の領地となり、江戸幕府直轄地となった。全島が佐渡金銀山のお囲い村とされたのである。佐渡で最初の検地は1600年上杉氏の代官河村彦左衛門によって実施された。この検地は指出(さしだし)形式をとり、実測検地は1693年(元禄6)初めて実施された。屋敷検地は1617年(元和3)と比較的早く実施された。元禄(げんろく)検地によって、慶長(けいちょう)(1596~1615)のころ分米(ぶんまい)2万1000石ほどであった佐渡は、新検では石高(こくだか)13万石余、年貢高3万石余の国とされた。

 江戸時代、佐渡には遠国奉行(おんごくぶぎょう)が置かれた。1600年の田中清六、03年の大久保長安(ながやす)はまだ代官とよばれたが、18年からは鎮目(しずめ)市左衛門、竹村九郎右衛門の2人の奉行が佐渡を支配した。江戸時代の佐渡は鉱山があったため物資の他国出しが禁ぜられるなど経済発展が遅れたが、18世紀のなかば宝暦(ほうれき)期(1751~64)から物資の他国出しが許されると、大坂への干烏賊(ほしいか)移出、江差(えさし)・松前への藁(わら)細工・竹細工・みそ・酒の移出が行われるようになった。

 維新の際には、広間役中山修輔(しゅうすけ)の力によって兵火にみまわれずに明治を迎えた。1870年(明治3)までの佐渡県、74年からの相川県の時代を経て76年新潟県に合併された。

[田中圭一]

『田中葵園編『佐渡志』全15巻(1782成、1889刊/野島出版越佐叢書4)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐渡国」の意味・わかりやすい解説

佐渡国
さどのくに

今日の新潟県佐渡市北陸道の一国。下国。大佐渡,小佐渡に分かれるが,地質学的には二つの島であったのがのちに一島となったという。『日本書紀』には佐渡州,『古事記』には佐渡嶋とみえている。もと佐渡国造のあったことが『旧事本紀』にみえる。天平15(743)年一時佐渡国を越後国に併合したが,天平勝宝4(752)年越後国から独立して一国となり,国府および国分寺が今日の佐渡市真野地区に置かれた。古くは雑太郡(さはたぐん)のみであったが,『続日本紀』によれば養老5(721)年に賀母郡(かもぐん),羽茂郡(うもぐん)を置き 3郡となった。『延喜式』『和名抄』にはともに 3郡であり,賀茂郡とある。『和名抄』に郷 23,田 3960町が記されている。平安時代末期には当国から砂金を産出したことが『今昔物語集』にみえる。神亀1(724)年「配流の遠近」が定められると,佐渡島遠流の地となり,承久の乱(1221)による順徳天皇をはじめ,文覚日蓮日野資朝京極為兼,観世元清(→世阿弥)らがここに流された。鎌倉時代,大仏氏が守護となったが,のちには本間氏の支配下となり,戦国時代には上杉氏が領有した。この頃から金山(→佐渡鉱山)の開発が急激に伸び,そのため豊臣秀吉はここを直轄地とし,江戸時代には幕府も奉行を置いて支配した。発展の大きな理由としては大久保長安が当時としては珍しい技術者であったことと,罪人を労働力として酷使したことがあげられる。明治1(1868)年佐渡県となり,明治9(1876)年新潟県と合併した。

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藩名・旧国名がわかる事典 「佐渡国」の解説

さどのくに【佐渡国】

現在の新潟県佐渡島を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の佐渡市竹田、国分寺は同市国分寺におかれていた。古くから遠流(おんる)の地として知られ、文覚(もんがく)順徳(じゅんとく)天皇日野資朝(すけとも)日蓮(にちれん)世阿弥(ぜあみ)らが流された。江戸時代は幕府直轄領。1603年(慶長(けいちょう)8)に、代官の大久保長安(ながやす)が金山を開発、以後遠国奉行がおかれ、奉行支配が幕末まで続いた。1868年(明治1)に佐渡県となり、翌年に越後(えちご)府に編入されたが、まもなく再置。1871年(明治4)に相川(あいかわ)県と改称、1876年(明治9)新潟県に編入された。◇佐州(さしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「佐渡国」の意味・わかりやすい解説

佐渡国【さどのくに】

旧国名。佐州とも。現在の新潟県の佐渡島全域。記紀にみえる大八洲(おおやしま)の一つ。北陸道の一国で,743年―752年の間は越後(えちご)国に統合されたが,《延喜式》には中国,3郡。流刑地として著名。鎌倉時代の守護は大仏(おさらぎ)氏,守護代は本間氏。近世初期に佐渡金山が開発され,当国は豊臣氏,次いで江戸幕府の天領となった。→日蓮
→関連項目中部地方新潟[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐渡国」の解説

佐渡国
さどのくに

北陸道の国。現在は新潟県にある日本海上の島。「延喜式」の等級は中国。当初は雑太(さわた)郡のみであったが,721年(養老5)同郡から賀茂・羽茂(うも)2郡がわかれて3郡となった。743年(天平15)越後国に合併,752年(天平勝宝4)再び独立。国府・国分寺は雑太郡(現,佐渡市国分寺)におかれた。「和名抄」所載田数は3960町余。「延喜式」の調庸は布で,中男作物に布・鰒(あわび)がある。流刑の地として知られ,722年(養老6)穂積老(ほづみのおゆ)が配流されたのを初見とし,順徳上皇・日蓮・世阿弥らが流された。鎌倉時代の守護は大仏(おさらぎ)氏,室町時代には足利・斯波(しば)氏らであったが,実質的には守護代本間氏が支配した。1589年(天正17)上杉景勝が領有,1600年(慶長5)徳川氏直轄地に編入され幕領となり,幕末に至る。平安後期から砂金の産地として知られ,戦国期以降,相川鉱山など金・銀山が開発された。1868年(明治元)佐渡県,71年相川県となり,76年新潟県に合併。

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