水口美濃部村(読み)みなくちみのべむら

日本歴史地名大系 「水口美濃部村」の解説

水口美濃部村
みなくちみのべむら

[現在地名]水口町水口・東林口ひがしはやしぐち中邸なかやしき城内じようない本丸ほんまるうめおか城東じようとう綾野あやの八坂やさか八光はつこうみやまえ鹿深ろくしん本町ほんまち一―三丁目・新町しんまち一―二丁目・松栄しようえいあかつき神明しんめい京町きようまち元町もとまち高塚たかつか秋葉あきば朝日あさひおか古城こじようおか本綾野もとあやの

甲賀郡の中ほどに位置する大村。南は野洲やす川に面し、北は蒲生がもう郡に至る。野洲川北岸に古城山があり、その南麓を東海道が東西に通る。集落は東海道に沿って形成され、大きくは古城山南麓の水口と、西方の美濃部に分れる。とくに水口は中世より伊勢大路の宿村として発達し(→水口宿、のちに水口岡山みなくちおかやま城の城下町となった。江戸時代には東海道の宿駅に指定され、宿場町に転じた。一方、美濃部はなお農村的色彩を残したが、水口城の築城、水口藩の成立等により城下が形成され、両者併せ郡の主邑としての地位を確立した。江戸時代前期の史料には美濃部水口村と記すものも散見される。

〔中世〕

野洲川南岸の北内貴きたないきも含め、一帯に蔵田くらた庄が成立していたとされる(輿地志略)。延文四年(一三五九)守護六角氏頼が足利尊氏から下された文和四年(一三五五)の文書を根拠に同庄などの地頭職保有の正当性を主張したが退けられ、仁木義長に安堵されている(延文四年一〇月五日「足利義詮御教書」吉田文書)。永享三年(一四三一)には蔵田庄地頭職をめぐり、甲賀郡を拝領したとする幕府奉公衆楢葉満清と異議を申立てる六角満綱の間で相論があり、同年一一月八日あらためて満清に安堵された(御前落居記録)。「御前落居奉書」によれば、聖護院門跡領とされ、翌四年八月三〇日に人夫以下課役を免除されている。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」でも同門跡領として一貫七五〇文を拠出した。

中世末期には水口郷・美濃部郷とよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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