加西郡(読み)かさいぐん

日本歴史地名大系 「加西郡」の解説

加西郡
かさいぐん

播磨国の中央部やや東寄りにあった郡。古代の賀茂かも郡の一部で(→賀茂郡、平安時代後期に同郡が東西に分れ、さらに加東郡・加西郡が成立したと考えられる。東は加東郡、南は印南いなみ郡・飾東しきとう郡、西は神東じんとう郡、北は多可たか郡に接した。現在の行政区画では加西市の全域、多可郡八千代やちよ町と西脇市の一部にあたる。康平二年(一〇五九)七月二〇日の播磨国東大寺領畠注進状(東大寺文書)に「(賀)西郡阿居郷桑原田」とある。賀西郡とも記した(慶長国絵図)

〔中世〕

郡内の庄園・公領には、多可庄在田ありた庄・須富すとみ庄・西下郷にししもざと庄・西河合にしかわい庄・いち別符・市余田いちよでん(現加西市)などがあった。平安末期の加西郡はおおむね平氏の支配下にあったもようで、「吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月四日条によれば梶原景時が西下郷を違乱し、後白河法皇がこれを停止するよう鎌倉幕府に命じている。法皇が本家職をもつ平氏の旧領と推定される。池大納言平頼盛の所領在田庄はいったん没収されたものの、寿永三年(一一八四)四月五日に源頼朝が返還した。西下郷庄は多可庄とともに室町院領であり、有力な皇室領庄園として伝領されていく。平安末期すでに法華山一乗いちじよう(現加西市)への巡礼道があったと想定されるが、応安四年(一三七一)には祇園執行宝寿院顕詮が西河合・三口みくち中山なかやま峠を通って広峯ひろみね神社(現姫路市)へと向かっている。

当郡は古墳文化の花開いた地域であったが、平安末期―鎌倉期に農地の開墾、副葬品の盗掘により古墳の乱掘が進んだ。飢饉や疫病が発生するとこの祟りと考えて、掘出された石棺の蓋に仏を刻んで供養することが行われた。浄土思想と地蔵信仰に基づくものだという。この石棺仏は兵庫県下で約一〇〇基、うち当郡内に二一基があり、加西市玉野たまの山伏やまぶし峠にある南北朝期の石棺仏が有名。同町には建治三年(一二七七)の造立銘を有するものもある。一乗寺は天台宗寺院だが鎌倉後期に律宗の影響を強く受けた。同寺衆徒は奈良西大寺の律宗僧叡尊の来山をたびたび求め、弘安八年(一二八五)七月ようやくこれが実現した。叡尊は一〇日間滞在し、最終日には二千一二四人に菩薩戒を授けた。同寺からはのちに文観が出て、京都東寺長者・山城醍醐寺座主を勤め、後醍醐天皇の護持僧となっている。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(西大寺文書)によれば、播磨国内に奈良西大寺流の真言律宗寺院曼荼羅まんだら(現加西市)があった。同寺は在田庄内佐谷さたにに所在した。同村を本貫地とする佐谷氏は関東武者であり、本姓安保氏、または同流長浜氏とみられる(建武二年閏一〇月二八日大炊助政高奉書「徴考録」石峯寺文書、観応二年八月一八日「英保弥五郎等着到状案」肥塚文書、文和二年二月一日「平政氏田畠寄進状」石峯寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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