日本大百科全書(ニッポニカ) 「水谷豊文」の意味・わかりやすい解説
水谷豊文
みずたにほうぶん
(1779―1833)
江戸後期の本草(ほんぞう)学者。名古屋の生まれ。通称助六。尾張(おわり)藩士の父の感化で本草に親しみ、小野蘭山(らんざん)に師事。藩の薬園御用となり諸国に採薬し、栽培に従事。自家薬園には研究と写生用に2000種を育成した。写生図に初めてリンネの学名を付記。1809年(文化6)4000種の本草の和漢名を対照した『物品識名』2冊を刊行、好評を博し、1825年『同拾遺』2冊を続刊。参府途中のシーボルトを、門人の伊藤圭介(けいすけ)らと熱田に迎え、自らの画集を披露した。本草研究の「尾張嘗百社」を主宰して、尾張学派を形成した。また新種を発見、その一つは圭介の孫の伊藤篤太郎(1866―1941)がMizutania japonica Ito(1890)と命名した。『本草綱目紀聞』60冊ほか、未刊の著述が多数ある。
[根本曽代子]