水釜
みずがま
嘉手納地区の西にある。もとは屋取集落で、北は比謝川を挟んで読谷山間切大湾村(現読谷村)、東は嘉手納村、西は東シナ海に面していた。ミジガマとよばれた。乾隆五〇年(一七八五)頃久米村士族の奥間秉仁が寄留地として選定し、読谷山間切渡具知村(現読谷村)居住の島袋家の先祖と二人で村立てしたと伝える(水釜史・嘉手納町史)。屋取構成員は久米毛氏奥間家・久米梁氏古謝家・祖氏崎山家・新参魯氏比嘉家などの士族が中心(水釜史)。
水釜
みずかま
[現在地名]宇治市東笠取水釜
東笠取南部の小字名。西北は笠取山の稜線、東南は東笠取川右岸に及ぶ帯状の地で、東西両端の標高差は二〇〇メートルを超える。「醍醐雑事記」所収の承安元年(一一七一)の寺領笠取東庄実検取帳に「水釜三百四十歩」として「友清百歩 重恒四十歩 重恒二百歩」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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