永山村
ながやまむら
[現在地名]旭川市
永山一条一―二四丁目・
永山二条一―二四丁目・
永山三条一―二四丁目・
永山四条一―二四丁目・
永山五条一―二四丁目・
永山六条一―二四丁目・
永山七条一―二一丁目・
永山八条一―二一丁目・
永山九条一―一二丁目・
永山十条一―一二丁目・
永山十一条一―二丁目・
永山十二条一―三丁目・
永山十三条二―三丁目・
永山十四条三丁目・
永山町・
秋月一条一―二丁目・
秋月二条一―二丁目・
秋月三条一―二丁目・
流通団地一条・
流通団地二条・
流通団地三条・
流通団地四条など、上川郡
当麻町
三条西二丁目など
明治二三年(一八九〇)から同三一年まで存続した村。
永山村
ながやまむら
[現在地名]椎葉村不土野 不土野下・不土野中
不土野川を隔てて栗林村の東に位置する。長山とも記す。不土野掛一一ヵ村の一つで、不土野組に属する。村内には小村として漆さこ村・浅藪村・下ノ尾村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として永山とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑六反余(高六斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。
永山村
ながやまむら
明治三三年(一九〇〇)から昭和二九年(一九五四)まで存続した村。明治三三年六月永山村を割いて当麻村を設置、新たに永山村が成立(市町村沿革台帳)。同村戸長役場は永山戸長役場に設置。同三五年当麻村との境を一六丁目とした。同年水田直播法が始まり、灌漑溝一万四千五六間余が完成。同三六年一二月板谷宮吉が村内に土地を入手、農場経営を開始した(永山町史)。同三七年四月北海道地方農事試験場を旭川から当地に移転。同三八年三月芝居小屋河野座が営業開始。
永山村
ながやまむら
[現在地名]和歌山市永山
名草郡に属し、和田川の上流、山東盆地東端にある。西南は中村、東は那賀郡長山村(現貴志川町)。小名に白岩・中谷・東谷・北谷・高岡・土井・新田原がある。また那賀郡に半ば入り込んで灌漑用溜池の大池がある。当村は中村から長山村に出る大池通り路筋にあたる(「道巾帳」貴志家蔵)。古代末期から中世にかけては山東庄に含まれた。慶長検地高目録によると高五七一石余、小物成一石一升六合。
永山村
ながやまむら
[現在地名]牛堀町永山
霞ヶ浦東岸にあり、東は島崎村・堀之内村。中世は木田見郷に属し、永山氏の拠点となっていたが、戦国期に同族島崎氏の支配領となり、「新編常陸国誌」に「故城址アリ、大掾氏の族行方忠幹六世孫知幹之ニ居リ長山氏トナル、子孫世襲、大永二年ニ至テ遂ニ島崎氏ノ為ニ滅サル」と記される。島崎氏滅亡後は佐竹氏領となったが、同氏の移封後、水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「長山村」として村高四二〇・二七四石、ほかに新田一五石余が記される。「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)には、本高六一〇石余・新高一〇二石余、御立山一八町一反余・村預り山一町三反余とあり、「水府志料」の戸数はおよそ一一二。
永山村
ながやまむら
[現在地名]えびの市永山
灰塚村の北と西を占め、長江川南西岸にある。江戸時代には加久藤郷に属した。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には長山村とあり表高五〇七石余。日向国覚書でも長山村とあるが高は記されない。元禄国絵図では長山村のほかに「長山村之内中福良村」を記す。「三州御治世要覧」では永山村とあり、内高九八〇石余。旧高旧領取調帳では高九五八石余。文政九年(一八二六)、加久藤郷の田畠などの直竿(再測量)見分の時に起きた地主より筆算・竿取への賄賂事件で、灰塚村庄屋で当村の庄屋も兼務していた税所伊兵衛は取締不行届きであるとして科銭五〇目を翌年一二月に申渡されている。天保元年(一八三〇)には当村内上午田門三二石余を含む一八〇石が新納久仰の小姓与番頭への役替えの役料として与えられている(新納久仰雑譜)。
永山村
ながやまむら
[現在地名]東脊振村大字松隈字永山
千石山の南西斜面に位置する。田手川の上流である永山川が流れる。正保絵図に村名がみえる。
永山村
ながやまむら
明治三一年(一八九八)から同三三年まで存続した村。明治三一年九月永山村を割いて東旭川村を設置、新たに永山村が成立(市町村沿革台帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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