永田雅一(読み)ナガタマサイチ

デジタル大辞泉 「永田雅一」の意味・読み・例文・類語

ながた‐まさいち【永田雅一】

[1906~1985]映画製作者。京都の生まれ。昭和22年(1947)大映社長となり、ベネチア国際映画祭で作品賞を受賞した「羅生門」などを製作。また、大映スターズを結成しプロ野球進出、同28年パリーグの初代総裁となる。

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20世紀日本人名事典 「永田雅一」の解説

永田 雅一
ナガタ マサイチ

昭和期の映画プロデューサー 日本テレビ放送網取締役;元・大映社長;元・大毎オリオンズオーナー



生年
明治39(1906)年1月21日

没年
昭和60(1985)年10月24日

出生地
京都府京都市

学歴〔年〕
大倉高商〔大正12年〕中退

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和30年〕,フランス芸術文化勲章〔昭和36年〕,藍綬褒章〔昭和41年〕

経歴
牧野省三に認められ、大正14年日本活動写真(日活)京都撮影所に入り、昭和9年第一映画社代表、11年新興キネマ取締役京都撮影所所長、17年大日本映画製作(大映)専務、22年社長。23年1月公職追放になったが、5月解除され社長にカムバック。26年「羅生門」がベネチア映画祭グランプリを受賞したのをはじめ数々の名作を手がけ、大映の黄金時代を築く。またプロ野球のワンマンオーナーとして君臨、初代パリーグ総裁も務めた。“永田ラッパ”の名で知られた。政界とも深く関わり、政界の黒幕とも呼ばれたが、36年以降は絶縁。46年大映破産と共に社長の座をおりたが、50年プロデューサーとして映画界にカムバックし「君よ憤怒の河を渉れ」などを製作。「映画道まっしぐら」の著書がある。没後の63年野球殿堂入り。また競争馬のオーナーとしても有名

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永田雅一」の解説

永田雅一 ながた-まさいち

1906-1985 昭和時代の映画プロデューサー。
明治39年1月21日生まれ。日活京都撮影所などをへて,昭和22年大映社長となる。26年「羅生門」でベネチア映画祭グランプリ受賞,36年日本初の70ミリ映画「釈迦」を製作。プロ野球パリーグの初代総裁もつとめた。昭和60年10月24日死去。79歳。京都出身。大倉高商(現東京経済大)中退。
格言など】永田ラッパはいたずらに鳴りひびいたのではない。前へ進み,そして実を結んだのだ(グランプリを受賞して,「私の履歴書」)

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367日誕生日大事典 「永田雅一」の解説

永田 雅一 (ながた まさいち)

生年月日:1906年1月21日
昭和時代の映画プロデューサー。日本テレビ放送網取締役;大毎オリオンズオーナー
1985年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の永田雅一の言及

【大映[株]】より

…創立当初は時代劇映画に強みを発揮して松竹,東宝という既存の2社に対抗したが,時代劇に比べて製作,スターともに手薄とみられていた現代劇も,《新雪》(五所平之助監督,1942)の大ヒットで軌道に乗り,以後《風雪の春》(落合吉人監督,1943),《無法松の一生》(稲垣浩監督,1943)などの佳作を生んだ。第2次世界大戦後,社名を大映とし,菊池寛のあとをうけて,撮影所出身の製作者永田雅一が社長に就任,占領軍による時代劇の禁止という苦境を,風俗娯楽映画や女性映画で乗り切った。また,山本嘉次郎,黒沢明,谷口千吉,成瀬巳喜男らの監督と契約を結び,次々と秀作を送り出し,1951年には黒沢の《羅生門》がベネチア映画祭でグラン・プリを受賞,同じくベネチア映画祭で《雨月物語》(溝口健二監督,1953)が入賞,さらに《地獄門》(衣笠貞之助監督,1954)がカンヌ映画祭で受賞して,西欧での日本映画の評価を一挙に高めた。…

【日本映画】より

… 松竹の映画づくりは,戦前につづいて城戸四郎の下で進められ,女性メロドラマ路線をさらに推進して,《君の名は》(1953‐54),《二十四の瞳》(1954)などのヒット作を出した。 大映では,永田雅一(1906‐85)が戦前の第一映画,新興キネマでの経験に基づき,興行的価値を第一とする映画製作を行って,母もの映画路線と《羅生門》(1950),《雨月物語》(1952),《地獄門》(1953)などの文芸色豊かな王朝ものの大作で業績を安定させた。 戦後に生まれた東映では,大川博(1896‐1971)がかつての鉄道マン時代(鉄道省,東急)の経験をもとに,徹底した営利主義を貫いた。…

【化猫映画】より

…日本固有の怪談映画の一種で,〈狸もの〉〈狐もの〉などと同様に古くから〈ゲテモノ〉としてつくられてきたが(日本映画史をつづった本には〈低俗観客層に愛好された〉などと記されている),昭和10年代の初めに日本映画きっての〈妖婦女優〉として知られた鈴木澄子(1904‐85)がこの種の怪談映画のヒロインを次々に演じて(《佐賀怪猫伝》《有馬猫》(ともに1937),《怪猫五十三次》《怪談謎の三味線》(ともに1938),《山吹猫》(1940),等々),〈化猫女優〉の異名を取って以来,怪談映画のなかでも特殊なジャンルとして日本映画史の底流の一部を形成することになった。すなわち,ゲテモノ,低俗娯楽映画といわれながらも確実な興行価値をもつジャンルとして量産され,とくに戦前の新興キネマで鈴木澄子の〈化猫映画〉をヒットさせたプロデューサーの永田雅一は,戦後も大映(1947年より永田が社長に就任)で,戦前の〈お嬢さんスター〉で売れなくなっていた入江たか子を〈化猫女優〉に仕立てて成功した。これによって猫を演ずることはスター女優の末路を意味するイメージにすらなった。…

※「永田雅一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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