釈迦(読み)しゃか

精選版 日本国語大辞典 「釈迦」の意味・読み・例文・類語

しゃか【釈迦】

[1] (Śākya の音訳)
[一] アーリア族の刹帝利(クシャトリヤ)、すなわち王族に属する古種族。釈迦牟尼(しゃかむにぶつ)はこの族の出身である。シャーキヤ族。
[二] 釈迦牟尼仏のこと。仏教の開祖。世界四聖人の一人。生誕年代には異説があって定説を見ないが、一説には紀元前四六三年、北方仏教の史料では、四月八日、いまのネパール地方の迦毗羅(かびら)城城主浄飯王の子として生誕。姓はゴータマ、名はシッタルタ。二九歳で生死解脱の法を求めて出家し、三五歳で悟りを得、仏となった。以来、四五年にわたりインド各地を布教。八〇歳のとき、二月一五日入滅した。その像は諸仏(如来)の形の基本となったほか、仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦牟尼如来。釈迦仏。釈迦文仏。悉達多(しったるた)。悉達太子。
[2] 〘名〙
① 能面の一つ。金泥を塗った仏像そのままの大きな面。喜多流で用いることがある。仏面。
② めくりカルタの札の名。→釈迦十(しゃかじゅう)
※雑俳・西国船(1702)「たりませぬ・坊(ぼん)がねぶって釈迦の十」
③ 物がこわれて使いものにならなくなること。→おしゃか(御釈迦)
④ 男の陰部をいう俗語。
⑤ 娼婦をいう。衆生を済度する意にかけていったもの。

さか【釈迦】

※仏足石歌(753頃)「舎加(サカ)の御足跡石に写し置き敬ひて後の仏に譲りまつらむ捧げまうさむ」
[補注]「仏足石歌」の例は「しゃか」と読むべきものか。

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デジタル大辞泉 「釈迦」の意味・読み・例文・類語

しゃか【釈迦】

《〈梵〉Śākyaの音写》
釈迦牟尼むにのこと。

古代インド、現在のネパール地方に住んでいた種族。釈迦の出た種族。シャーキャ族。釈迦族。
能面の一。仏を表す金泥塗りの大きな面。喜多流の「大会だいえ」で、大癋見おおべしみの上に重ねて用いる。

さか【釈迦】

しゃか」の直音表記
「―の御足跡みあといはに写しおき敬ひて」〈仏足石歌

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「釈迦」の意味・わかりやすい解説

釈迦
しゃか

生没年不詳。紀元前463―前383年説と、前565―前485年説がある(後述参照)。仏教の創始者。

[三枝充悳 2016年11月18日]

出身

ネパール南部がインド大平原に連なるあたりに位置したカピラ城を中心に、サーキヤSākiya, Śākya人の小国があり、その国王の浄飯王(じょうばんのう)Śuddhodanaの長子として、生まれた。釈迦の呼称はこの種族名に由来し、尊称して釈迦牟尼(むに)(ムニmuniは聖者)とよばれ、釈尊と漢訳する。姓はゴータマGotama, Gautama(瞿曇(くどん)と音写)、名はシッダッタSiddhattha、シッダールタSiddhārtha(悉達多(しっだるた)と音写)という。多くは、覚者(悟った人)を表す普通名詞を固有名詞化して、仏陀(ブッダBuddha)または仏とよばれ、これが転訛(てんか)して日本では「ほとけ」となる。さらに如来(にょらい)(タターガタTathāgata、真理の完成者)や勝者(しょうじゃ)(ジナGina)その他、多数の名でよばれ、これを名号(みょうごう)と称する。

 80年の生涯は確実とされる一方、没年に関しては仏滅年代論が現在も盛んであり、次の3種がある。南方には11世紀ごろからの伝説により前654年仏滅説が普及しているが、学問的には、前485年ごろと前383年ごろの2説が有力である。ともに学者により数年の差はある。前485年説はスリランカの史書によるものと、後490年に中国に伝来した年代記によるものとあり、前383年説はより古く中国で訳された二つの論書などに基づいている。おおむね欧米を含む外国の学者は前者を、日本の学者の大半は後者をとる。なお釈迦の生存年によって、同時代の思想家およびそれ以前の諸文献の年代がほぼ決定される。

 サーキヤ人は、あるいはネパール系、したがってモンゴル系人種かとの推測もあるが、当時すでに圧倒的なインド・アーリア文化の領域内にあったことは、疑う余地がない。

 19世紀には啓蒙(けいもう)思想などの影響から釈迦の実在が疑われ、天文学の諸説や太陽神話から、釈迦の伝記を説明する学者もいた。そのさなかの1898年に、ネパールの南境で一つの蝋石壺(ろうせきつぼ)が発掘され、その表面に刻まれた前3世紀以前の文は、「これは釈迦族の仏、世尊の遺骨の器で、名誉ある兄弟姉妹妻子たちの(奉納)」と解読された。これは原始経典の記載と一致し、古い伝承がここに確証された。そのほか、1896年に発見されたアショカ王碑文は釈迦の誕生地ルンビニーを裏づけ、のちにほかの骨壺の発掘もあり、釈迦の実在は不動となった。

 今日の文献学を総合すると、最古の経典の骨格は、釈迦の孫弟子のころの成立とされる。すなわち釈迦入滅の直後に仏弟子が集まり、釈迦の言行を編集(これを第一結集(けつじゅう)という)して、それが口誦(くじゅ)により伝承され、また拡大する。時代の経過と諸地方への伝播(でんぱ)の間に、誤りや粉飾が混入し、また増広や変更などが加わる。とくに釈迦への思慕・尊崇・信仰が強まって、釈迦を神秘化しさらに空想化し、ときに雑多な要素が付加され、また教説も後の発展成果と入り交じる。現在伝わる初期経典はすべて、釈迦没後100年ないし200年ごろに教団が保守派の上座(じょうざ)部と進歩派の大衆(だいしゅ)部とに分裂し、さらにその後の細分裂の末に成立した20余の部派のうち、いくつかの部派において確定したものであり、釈迦の直接の教え(金口(こんく)の説法)を取り出すことは至難とされる。釈迦はマガダ語で語ったと推定され、それがマガダ語に近いパーリ語と、標準語のサンスクリット語とに置き換えられ、後者から他の俗語(たとえばガンダーラ語など)に、また多くが漢訳され、一部はチベット語訳されたほか、少数ながら古語の写本の断片が諸地域で発見されている。マガダ語はパーリ語文献に少数その語形を残すのみで、マガダ語のまとまったテクストは現存しない。この初期経典群はアーガマĀgama(伝来)とよばれ、漢訳は「阿含(あごん)」と音写する。それには四つの阿含経があり、また一部のみの単訳も多い。パーリ語資料はニカーヤNikāya(部)と名づけ、四つのニカーヤが四阿含経とほぼ対応するが、第五のニカーヤ(小部と称する)に含まれる韻文経典こそ最古の資料とみなす傾向が、今日の学界では定説化している。

[三枝充悳 2016年11月18日]

出家と成道

アーガマには釈迦の伝記(仏伝)への関心はきわめて薄く、やがて、そのなかの断片的な釈迦の回想などを資料としつつ、インド人独自の優れた想像性のもとで仏伝が創作され、その種類も増える。今日伝わる仏伝はすべてそれらに基づく。

 釈迦は生後7日に母のマーヤーMāyā(摩耶夫人(まやぶにん))に死に別れ、以後は亡母の妹すなわち叔母に育てられた。王子としての教養を積み生活は恵まれていたものの内向しがちであった。当時の風習により16歳で結婚し、のち男子(ラーフラRāhulā、羅睺羅(らごら))をもうける。しかし富裕と安逸な日常のうちに、青年期を過ぎた釈迦は、人生の根源に潜む苦の問題に思いを深め、それに沈潜するなかで、苦の本質の追究とその解放である解脱(げだつ)を目ざすようになる。

 29歳に達し、その徹底的な解決を求め、ついにいっさいを放棄して、城を脱出し、遠くに南下して出家する。ガンジス川辺に当時の有名な仙人二人(アーラーラ・カーラーマĀlāra Kālāmaとウッダカ・ラーマプッタUddaka Rāmaputta)を相次いで訪ねて、その禅定(ぜんじょう)を学ぶ。しかしなお意を満たしえず、やがてガヤーの地に赴き、付近の山林にこもって出家者にふさわしい苦行に専念する。その苦行は激烈を極め、極度の断食のために身体は骸骨(がいこつ)に似ても、なおそれを休まなかった。苦行は6年(別説7年)間続くが、かえって精神はもうろうとなり、初志から遠ざかってしまうことを自覚して、それを放棄する。山林を出て川で身を浄(きよ)め、村の少女から乳粥(ちちがゆ)を受けて体力の回復を待ち、ブッダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座って、ひたすら思索にふけった。

 途中に悪魔の誘惑などもあったが、釈迦はただいちずに冥想(めいそう)に集注し、ついに大いなる悟りが開けて、ここに成道(じょうどう)は完成し、ブッダすなわち「悟った人(覚者)」となった。その後しばらく悟りの醍醐味(だいごみ)に浸り、長いためらいののちに、説法を決意する。その内心の動きは、悪魔や魔女の誘惑や梵天(ぼんてん)の切なる説法要請(勧請(かんじょう))という戯曲的表現で示されている。

[三枝充悳 2016年11月18日]

説法

釈迦は、ベナレスワーラーナシ)北方のサールナートにあるミガダーヤ(鹿野苑(ろくやおん))に、かつて苦行をともにした五人の出家者を訪ねて、最初にその教えを説いた。そして彼らは教化されて仏弟子となる(初転法輪(しょてんぼうりん)という)。サンガ(僧伽(そうぎゃ))とよばれる教団はここに始まる。これを契機に、釈迦は請われるままに一般の人々にも広く呼びかけ、彼らのさまざまな問いに懇切に答えて、説法教化の旅が続けられた。その範囲は、東の王舎(おうしゃ)城と西の舎衛(しゃえ)城あたりを軸とする300キロメートル以上のほぼ楕円(だえん)形の中インド一帯に及ぶ。前者の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)と後者の祇園(ぎおん)精舎とに、夏のモンスーン期を過ごすほかは、生涯はほぼ遊行(ゆぎょう)の旅にあった。その間に仏弟子も信者もしだいに増加し、経典では仏弟子1250人とするものの、実数はそれを超えたらしい。ただし釈迦自身にとくに自説の伝道や教団設立の意図があったとは認めがたく、むしろ民衆の苦の解決にただ歩き回り、新宗教を喧伝(けんでん)するのではなく、巡歴の間に人々の求めに応じたさまが、諸経典の記述から明らかに知られうる。

[三枝充悳 2016年11月18日]

入滅

釈迦は酷熱のインド各地に成道以後の45年間も教えを説いて回った。その後半の25年間はいとこにあたるアーナンダĀnanda(阿難(あなん))が随伴したが、ついにクシナガラの郊外の2本のサーラ樹(沙羅双樹(さらそうじゅ))の下で入滅する。ときに80歳。その最後の旅における情況は一つの経にまとめられ、そのなかに数々の遺言が残されている。そのおもなものを記す。「わたしには握りこぶしはない、すべてをことごとく説き示した」「法を見るものはわたしを見る。わたしを見るものは法を見る」「わたしの死後は、わたしの説いた法と戒とが汝(なんじ)たちの師となる」「自己を灯明(または島)とし自己をよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明とし法をよりどころとして、他のものをよりどころとするなかれ」「法と戒とに精励するものは、生の流転(るてん)を捨てて苦の終滅をもたらすであろう」といい、そして「諸現象(諸行(しょぎょう))は滅び行くものである。怠ることなく精進せよ」が最後のことばとなった。まことに静かな入滅であり、その一生には、他の諸宗教の創始者や聖者などにみられるような迫害や弾圧はまったくない。入滅後、釈迦は付近の民衆により火葬され、その遺骨(仏舎利(ぶっしゃり)という)は諸王たちに分配され、8か所に祀(まつ)られ、ストゥーパ(塔)が建てられた。

[三枝充悳 2016年11月18日]

教え

前述のとおり、釈迦の直接の説は確定しがたい。以下(1)~(11)に記す原始仏教の教説の諸項目の原型ないし核を、釈迦に求めるのがふさわしいであろう。同時にまた釈迦は卑近なたとえなどで、そのつど臨機応変のもっとも適した教えを説いた(対機(たいき)説法という)とされている。

(1)現実の直視、それによる多様性の承認、それは寛容につながる。

(2)心を平静にし、主体的な自己の確立を求める。しかし我執(がしゅう)と自己中心とはすべて捨てる。

(3)いっさいの平等。当時すでに有力なカースト制度を否認し、生まれではなくて、個人の実践のみを尊ぶ。

(4)ひたすら実践を目ざし、議論の優劣を争わず、とくに形而上(けいじじょう)学的な問いに答えず加わらない(無記とよぶ)。

(5)可能な限り普遍的な法を中心とする。

(6)三法印(さんぼういん)(一切皆苦(いっさいかいく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)。のち涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を加え、やがて一切皆苦を除く)。

(7)苦集(くじゅう)滅道の四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)(正見・正思・正語・正業・正命(しょうみょう)・正精進・正念・正定(じょう))。

(8)五蘊(ごうん)(法の分類で、色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識の五つの集まり)。

(9)六入(法の分類で、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つの器官、それに対応して色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法の六つの対象)。

(10)縁起(えんぎ)(すべては他との関係においてあり成立し生じ滅する。そのもっとも整備された語が十二因縁(いんねん))。

(11)ニルバーナnirvāa(涅槃、限りない安らぎ)こそが解脱・悟りの境地であり、釈迦はそれに到達し、その生き方は仏教徒の理想のあり方、目ざす彼岸(ひがん)とされる。

 なお釈迦の生きた時代は、インドで自由思想家が輩出し、またそれを支える社会的地盤のあったことを銘記する要があろう。

[三枝充悳 2016年11月18日]

『渡辺照宏著『新釈尊伝』(1966・大法輪閣/ちくま学芸文庫)』『『ゴータマ・ブッダ』(『中村元選集11』1969・春秋社)』『三枝充悳著『初期仏教の思想』(1978・東洋哲学研究所/上中下・第三文明社・レグルス文庫)』『原田三夫著『釈迦回帰の仏教物語――やさしい仏教小事典』(1991・東明社)』『菅沼晃著『釈迦のことば』新装版(1994・雄山閣出版)』『松原哲明著『よくわかるブッダ――釈迦80年の生涯』(2001・チクマ秀版社)』『中村晋也著『釈迦と十人の弟子たち』(2003・河出書房新社)』『西村公朝著『釈迦と十大弟子』(2004・新潮社)』『宮元啓一著『ブッダ――伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫)』『Hermann OldenbergBuddha, sein Leben, seine Lehre, seine Gemeinde (1961, München)』


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改訂新版 世界大百科事典 「釈迦」の意味・わかりやすい解説

釈迦 (しゃか)

仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニŚākyamuniの音訳,釈迦牟尼(むに)(〈釈迦族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈迦は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前483年,前383年など,南方仏教圏では前543年)は学問上の問題として論じられている(釈迦が80歳で死去したことは定説とされる)。

 インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥKapilavastuを支配していた釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナŚuddhodana(浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤーMāyā(麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。姓はゴータマGotama(釈迦族全体の姓),名はシッダールタSiddhārtha(悉達多)。生後7日目に母を失い,以後は叔母(実は継母でもある)マハープラジャーパティーに育てられた。アシタ仙人から,〈長じて偉大な王になるか,偉大な宗教者になる〉との予言をうけたため,王になってほしいと願う父王によって何ひとつ不自由のない王宮の生活があてがわれた。しかし,耕作の光景に接し,農夫や牛馬の労する姿を見,露出した虫が鳥についばまれるさまを見て世の苦しみを悟る。また城の東・西・南・北の門から外出しようとして老人,病人,死人,出家者に遭遇し,自分の進むべき道を予見する。ヤショーダラーを妃とし,一子ラーフラRāhulaをもうけたあと,一夜,愛馬カンタカと御者チャンダカを従えて城を脱出し,マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる。2仙人に禅の指導をうけたが満足せず,6年苦行に励んだが得るところなく,村娘スジャータの提供する乳粥で体力をつけ,ネーランジャラー河畔のアシュバッタ樹の根方で瞑想に入り,ついに菩提(悟り)を得て仏陀(悟った人)となった(アシュバッタ樹はこれよりのち菩提樹と呼ばれる)。最初の説法はムリガダーバMṛgadāva(鹿野苑(ろくやおん))で5人の比丘(びく)に対して行われた。その後,拝火外道のカーシャパ3兄弟とその弟子たち合計1000人や,シャーリプトラ(舎利弗),マハーマウドガリヤーヤナ(目連),マハーカーシャパ(摩訶迦葉)らが弟子になった。故国からは従兄アーナンダ(阿難),理髪師ウパーリ(優波離),息子ラーフラ(羅睺羅)が弟子に加わった(十大弟子)。比丘(男の出家者)のほかに,比丘尼(女の出家者),優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)(男女の在家信者)もできた。釈迦はガンガー(ガンジス川)中・下流域の平原,なかんずくマガダ国のラージャグリハ(王舎城)とコーサラ国のシュラーバスティー(舎衛城)で活動した。前者には国王ビンビサーラの寄進した竹林精舎が,後者にはアナータピンダダAnāthapiṇḍada(給孤独(ぎつこどく))長者の寄進した祇園精舎があった。

 釈迦の教勢が盛んになるにつれ,法敵も増えた。彼の従弟とされ,のちに彼に離反するデーバダッタDevadatta(提婆達多)からは狂象をけしかけられ,祇園精舎ではバラモンたちから女性と密通しているとの虚偽の告発がなされた。実際,釈迦の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく,出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく,行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し,出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。ほかに六師外道と呼ばれるライバルもいた。

 釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦八正道十二因縁の教義である。これは,一言でいえば,苦悩のよってきたる淵源を追求し,その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも,自己存在の問題について,現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。

 釈迦は29歳で出家し,35歳で悟り,45年教化活動を行って,80歳で死去した。故国へ向かう旅立ちの途中,食中毒をおこして,クシナガラKuśinagaraで2本のサーラ樹(サラソウジュ)の間に横たわって生涯を閉じた。遺体は荼毘(だび)に付され,遺骨は各地の塔(ストゥーパ)にまつられた。釈迦は遺言として〈自己自身を灯明(あるいは島)とせよ〉〈すべては移ろいやすい,怠らず努めよ〉〈出家者は私の葬儀にかかわるな,葬式は在家者がするであろう〉などと述べた。これらの言葉は彼がいかに人間ひとりひとりの魂の救済に意を注いでいたかを示している。弟子が伝道に赴くときに〈二人していくな,一人ずつ行け〉〈俗語で説け〉と言ったのも,教えをできるだけ多くの人のものにするためであった。慈悲の精神と涅槃の理想が彼の教えを貫いている。

 後世の仏教徒はしだいに釈迦を神格化し,その伝記を粉飾する傾向をもった。輪廻(りんね)転生の思想に基づき,釈迦は今世に出現するまでにすでに多くの生存をくりかえし,そのつど善行に励んだとされた。このいわば修行時代の釈迦は,ボーディサットバBodhisattva(菩薩,すなわち菩提を求める者)と呼ばれ,彼の前世物語(ジャータカ,本生譚)がいくつもつくられた。一方,大乗仏教では,彼は永遠の仏の顕現とされ,化身または応身と呼ばれるようにもなった。釈迦の誕生日については〈バイシャーカ月白分8日(または15日)〉の伝承が生まれ,中国暦ではこれが4月8日に換算され,南方仏教圏ではベーサク月(4月~5月)の満月の日にあてられている。
仏教
執筆者:

造形的表現をとる釈迦仏像は,歴史上実在した偉大な仏教の教祖としての釈迦と,時空を超越した覚者,すなわち如来としての釈迦の二つの形態をとる。仏教成立初期においては釈迦を表すことは行われず,やがて前2世紀ころバールフットやサーンチーの浮彫において,〈仏陀なき仏伝図〉として歴史上の釈迦をその生涯の説話の中に表現することが行われた。しかしあくまで人間の姿をとらず,輪宝,菩提樹,金剛座,舎利塔などを用いて,説法,成道(じようどう),涅槃を暗示・象徴した。仏像として表されるにいたった契機や起源については諸説あるものの,後1世紀ころガンダーラにおいてであると考えられる。やがて仏伝中の釈迦をはなれ,超越的な如来として,単独の礼拝像である釈迦仏像も造られた。なかでも2世紀ころの南インドのアマラーバティーや中インドのマトゥラー,サールナートにはすぐれた釈迦仏像が見いだされる。仏教の東漸に伴い,アフガニスタンから中央アジアの各地にこの両形態の釈迦像がさかんに造られた。また東南アジアの各地にも伝播した。中国における釈迦像は後漢の明帝のとき,初めて伝来したとされる。遺例としては5世紀の銘を有する金銅仏が最も古く,このほか金銅仏,石仏に多くの作例がある。やがて北魏時代には雲岡石窟に次いで竜門石窟,さらには西の果て敦煌莫高窟など,中国各地に多くの石窟が開かれ,多くの釈迦像が造られ,また壁画に描かれた。中国における釈迦像にも,如来に通形の表現をとる釈迦仏像,さらには文殊・普賢などの脇侍を伴うもの,降魔・涅槃,あるいは山中苦行釈迦などの仏伝説話と不可分の釈迦像,さらには《法華経》見宝塔品に説く,〈二仏併座図〉中の釈迦,さらには多くの菩薩に囲繞された釈迦の浄土を表した〈釈迦浄土図〉などがある。

 日本における釈迦像の初見は,《日本書紀》欽明天皇7年(538)条百済の聖明王が初めて金銅釈迦像をもたらしたとする,いわゆる仏教公伝の記録であるが,606年(推古14)に飛鳥寺の本尊,623年(推古31)には法隆寺金堂本尊などの造られたことが《日本書紀》や造像銘で知られ,今日に伝わっている。やがて飛鳥・奈良・平安時代を通じて多くの釈迦仏像が造られた。これらは如来としての通形の図像をとるもので,偏袒右肩で手は施無畏・与願印ないしは説法印をなし,結跏趺坐するものが多い。平安時代初期になって立像釈迦像も多数造られ,室生寺像が著名である。釈迦像の中には小金銅仏で釈迦の誕生時に獅子吼し,灌水を受けたときの姿を表した釈迦誕生仏がある。また清凉寺式釈迦と称せられる一群の特異な図像をもつ釈迦像がある。これは987年(永延1)奝然(ちようねん)が宋よりもたらした像で,通肩で頭髪を巻毛とした立像。鎌倉時代の釈迦信仰の流行に伴って多くの模刻像が造られた。

 絵画作品としては,法隆寺金堂壁画中には釈迦を主尊とする浄土,すなわち釈迦浄土図があり,霊鷲山(りようじゆせん)における釈迦の説法の情景を描いた〈霊鷲山釈迦説法図〉としてもと東大寺法華堂に伝わった《法華堂根本曼荼羅》(ボストン美術館)や《釈迦説法図繡帳》(奈良国立博物館)など,飛鳥・奈良時代の作品がある。また涅槃図仏伝図としても多くの作品があり,ことに応徳3年(1086)の銘を有する涅槃図や再生説法を描いた《釈迦金棺出現図》(京都国立博物館)などは,平安時代の著名な作品である。なお単独の礼拝的釈迦像を描いた作品として,神護寺の釈迦像が知られている。やがて鎌倉・室町時代になって水墨画を中心とする宋・元の絵画作品がもたらされた。これには二尊院,東福寺,建長寺の釈迦三尊や,寧波の画工陸信忠の描いた《涅槃図》(奈良国立博物館),長崎最教寺《八相涅槃図》などがあり,さらに梁楷筆《出山釈迦図》などが知られ,禅宗における釈迦信仰を軸として,中世の釈迦画像に大きな変化をもたらした。
仏像
執筆者:

仏教がインド,中国を経て日本に伝わってさまざまなかたちで人々の心をとらえたのに対応して,その創始者である釈迦の伝記,人物像もまた,多様な展開をみせた。

 釈迦の生涯は下天,託胎(たくたい),誕生,出家,降魔,成道(じようどう),転法輪(てんぽうりん),涅槃の8段階に区分され,〈八相成道〉と呼ばれる(《天台四教儀》)。兜率天から人間界に下り,白象に乗って摩耶夫人の胎内に宿り,その脇の下から生まれるや〈天上天下唯我独尊〉と唱え,生の苦悩にめざめて出家・苦行し,悪魔の妨害を退け,ついに悟りの境地に達し,教団を組織して人々にその教えを説き,80歳の生涯を閉じる。それ自体劇的な一代記であり,これに本生譚(ジャータカ)と呼ばれる前世時のさまざまな物語や滅後の舎利分納,仏典結集や阿難,目連など弟子たちをめぐる逸話が付随する。これら釈迦をめぐる物語は広く〈仏伝文学〉と呼ばれ,日本の文学・文化史に重要な位置を占める。

 日本の文学史で,最初にまとまった仏伝をのせるのは10世紀末の《三宝絵》であるが,仏として生まれる以前の本生譚が中心で,飢えた虎に自らの命を与える薩埵(さつた)王子や自らの命と引換に鬼から無常偈を教えてもらう雪山童子などの自己犠牲(利他行)の話が集められている。仏典をもとにしながら難しい漢文をはなれ,こなれた和文の表現で語られる最初の仏伝文学として注目される。その背景には当時寺院で盛んに行われた法会における僧の説教・説法で,仏伝が語られていたということがある。口頭の語りだけでなく,道長の法成寺御堂の扉絵に八相成道が描かれたり,貞観寺の仏伝の柱絵にもとづく絵解きや《梁塵秘抄》にみる歌謡(今様)世界で仏伝が歌われるなど,さまざまな領域で仏伝の物語は享受されていた。

 11世紀後半になって,釈迦滅後二千年に〈末法〉の暗黒の世に入るという終末観の思想が広まったが,12世紀前半の《今昔物語集》が初めて体系的な仏伝文学を形成したのもこの末法の考えと深いかかわりがあろう。《三宝絵》が前世の仏を問題にしたのに対し,《今昔》は人間としての釈迦の生を徹底して見すえようとする。それは天上から下って摩耶夫人の胎内に宿る巻一の巻頭にはじまり,巻三の〈涅槃・舎利分納〉に至るまで一貫している。《過去現在因果経》《釈迦譜》など,漢訳の仏伝経典をもとにしたテキストや,仏典から離れた説法用のテキスト類(《注好選》《百因縁集》)などをふまえて,独特の漢字片仮名まじりの迫力ある文体になっている。

 仏典では前世時や悟りを開く成道が重視されるのに対し,《今昔》では転法輪すなわち国王から民衆に至るあらゆる人々に前世からの因縁を説き,生の苦悩から離脱すべき救いを説く教化の物語が圧倒的に多いのが特徴である。布施が受けられず鉢をむなしく胸にあてて疲れきった表情をみせたり,死に際して吾が子羅睺羅(らごら)と涙の対面をしたり,仏典以上に人間的で身近で親しみやすい釈迦像が印象深く描かれている。

 また巻四〈仏後〉は釈迦滅後の仏法の流布が説かれ,以後の震旦部(中国),本朝部(日本)の仏法の物語世界の展開に通ずる。一方,巻五〈仏前〉は釈迦出生以前のインドの建国話や世俗的な話題が続くが,同時に本生譚も多く,預かった猿の子を鷲にさらわれ自分の肉を裂いて子を取り戻す獅子の話(獅子が釈迦の前世),帝釈天に供養する物が手に入らずついに我が身を火に投じ月にこめられる兎の話や,獅子の威勢を借りる狐,猿の生き肝を取ろうとするが,口をすべらして逃げられる亀の話等々,日本の昔話や伝説でもなじみの深い話がおもに釈迦の前世の物語として語られる。そこでは食物,風景などすべて日本のそれに変わっており,和文調のこなれたユーモラスな語り口で展開されている。

 こうした傾向は中世になるとさらに進み,室町末期の《法華経直談鈔(じきだんしよう)》では,仏の出家した姿が,濃い墨染めの身にやつした日本の隠遁僧さながらに描かれた。また,御伽草子の《釈迦の本地》(釈迦出世本懐伝記)は《今昔》に次ぐまとまった仏伝文学であるが,太子時代の釈迦が東・西・南・北の四門で老者・病者・死者・出家者と出会い,それが出家の機縁となる四門出遊の場面は,御伽草子特有の四方と四季を重ねた日本的な風景・景物の描写でつづられる。さらに《塵添壒囊鈔(じんてんあいのうしよう)》では,実母摩耶夫人の死を知らされていなかった太子が,たまたまその墓に詣でて事情を知り,それがもとで出家してしまう話となる。日本人好みの〈母子もの〉の物語に完全に変貌している。

 平安時代の《今昔》の段階ではまだ仏典をふまえつつ離れようとする緊張が表現の源になっていたが,鎌倉時代の釈迦信仰の隆盛(明恵など)を経て室町時代に至ると,仏典とはまったく切り離されて日本人の好みにあわせた釈迦の物語が形成され,近世の《釈迦八相物語》もその延長線上にある。仏教に対する信仰の変遷と釈迦の物語(仏伝文学)の変容とはまったく相応じている。

 中世には,京の鴨河原で笠をかぶった僧が扇子片手に釈迦の涅槃の場面を人形を用いて説教している図がある(《遊行上人縁起絵》)。4月8日の灌仏会(かんぶつえ)は釈迦の生誕を祝う花祭として今も伝わり,涅槃会(涅槃講)も各地の寺院で続き,涅槃図をもとに絵解きを行う寺もある(鈴鹿市の竜光寺など)。
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百科事典マイペディア 「釈迦」の意味・わかりやすい解説

釈迦【しゃか】

仏教の開祖。生没年には諸説あって定めがたいが,前565年―前486年説,前465年―前386年説などが有力。サンスクリットのシャーキャの音写。釈迦はもと北インドの一部族の名であるが,その部族出身の仏陀(ぶっだ)という意味で現在は広く使用されている。正しくは釈迦牟尼(むに),釈尊(しゃくそん)などと呼ばれるべきである。俗姓をゴータマ,名をシッダールタといい,現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバストゥ城で,シュッドーダナ王(浄飯(じょうぼん)王)を父として生まれた。16歳で結婚,1子を得たが29歳で出家し,6年間にわたり苦行と思索・瞑想(めいそう)にふけり,35歳で悟りに達した(成道(じょうどう))。鹿野苑(ろくやおん)(サールナート)での説法を最初に,主としてガンガー(ガンジス)川中流域で多くの階層の人びとに教えを説き,80歳でクシナガラで入滅した。その教えの中心は,因果の理法を明確に知ることによって,物質や自我に対する執着から生じる苦悩より自由になることであった。その実践の方法も極端な苦行などを避け,倫理的面を強調したので,当時の支配階級や商人階級に受け入れられた。その教説は神秘化され,理想化されて,初期仏教経典の中に納められている。
→関連項目応身大谷磨崖仏ジャータカ舎利善円大日如来誕生仏道釈画兜率天涅槃会花祭(仏教)パーリ語普賢仏身仏像法(仏教)法輪菩薩ボダイジュ(菩提樹)ボードガヤーマハーバンサ弥勒文殊ルンビニー論義

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「釈迦」の意味・わかりやすい解説

釈迦
しゃか
Śākya

[生]前463頃.カピラバストゥ,ルンビニ
[没]前383頃.クシナガラ
仏教の開祖。釈迦牟尼 (むに) ともいう。釈迦は種族名 Śākyaの,牟尼は聖者を意味する muniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。シャカ族の国王浄飯王を父とし,摩耶夫人を母とし,姓をゴータマ Gotama (瞿曇〈くどん〉) ,名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。生後まもなく母を失い,叔母の手で養育された。 16歳で結婚,息子ラーフラをもうけたが,29歳のとき意を決して出家。修行の末,35歳頃ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き,ブッダ buddha (仏陀 ) ,すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法を行い,以後 80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「釈迦」の解説

釈迦
しゃか

前563ごろ〜前483ごろ,または前463ごろ〜前383ごろ
仏教の開祖。悟りを開いてからは釈迦牟尼 (しやかむに) または仏陀 (ぶつだ) とも尊称される
姓はガウタマ,名はシッダールタ。現在のネパールに位置するカビラ城の城主を父として生まれた。人生の無常を感じて29歳で出家し,山林にこもって6年間苦行につとめた。しかし苦行の無意味なことを知り,ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想生活にふけり,35歳で悟りを開いて覚者となった。その後,クシナガラで80歳で入滅するまで北インド諸地方を歴遊して教化を行った。彼の教えは四諦 (したい) と八正道 (はつしようどう) に要約され,バラモン教やヴァルナに反対し,クシャトリア階級やバイシャ階級に信仰された。在世年代については諸説がある。

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とっさの日本語便利帳 「釈迦」の解説

釈迦

過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやって来ない。だから現在のことがらを、それがあるところにおいて観察し、揺るぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。\『中部経典』
釈迦(前四六三頃~三八三)のことば。

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デジタル大辞泉プラス 「釈迦」の解説

釈迦

1961年公開の日本映画。監督:三隅研次、脚本:八尋不二、撮影:今井ひろし、美術:内藤昭、照明:岡本健一、録音:大角正夫。出演:本郷功次郎、チエリト・ソリス、勝新太郎、川崎敬三、川口浩、小林勝彦、市川雷蔵ほか。第16回毎日映画コンクール録音賞受賞。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「釈迦」の解説

釈迦 しゃか

?-? 織豊時代の蒔絵(まきえ)師。
京都朱雀(すざく)あたりにすみ,提婆(だいば)とならぶ名工といわれた。

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防府市歴史用語集 「釈迦」の解説

釈迦

 仏教を開いた人です。インドの小国に生まれ、29歳で出家した後に、35歳で悟りを開き、80歳で亡くなるまで人々に教えを説いてまわったと言われています。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「釈迦」の解説

釈迦(しゃか)

ブッダ

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世界大百科事典(旧版)内の釈迦の言及

【灌仏会】より

…仏教の年中行事の一つ。釈迦が誕生したといわれる4月8日,すべての仏寺で行われる法会であり,日本では花御堂の中央におく水盤の中で,小さい金銅の誕生仏の像の頭上に甘茶を灌(そそ)ぐ祭りをいう。古くは,仏生会(ぶつしようえ),仏誕,降誕会,浴仏斎,竜華会(りゆうげえ)などの名があるが,今では,民族のちがいを超えて国際化し,世界各地の仏教徒がこれに参加する。…

【サラソウジュ(沙羅双樹)】より

…フタバガキ科の落葉高木で,マメ科のムユウジュ(無憂樹)およびクワ科のボダイジュ(菩提樹,インドボダイジュ)とともに仏教の三大聖木とされる。原産地のインドではサルsal,その漢名を沙羅といい,釈迦がクシナガラで涅槃(ねはん)に入ったとき,その四方にこの木が2本ずつ生えていたという伝説から,沙羅双樹という。沙羅は娑羅とも書き,サンスクリット語シャーラśalaの音写で,堅固樹の意である。…

【ジャータカ】より

…広くインドの民話に題材を求めた,釈迦の過去世物語。説話文学としても価値が高い。…

【初期仏教】より

…釈迦によって創始され,彼の滅後直弟子たちが発展させた初期の仏教をいう。通常用いられる原始仏教という時代区分より,やや狭義のニュアンスがあるように思われる。…

【ストゥーパ】より

…釈迦の遺骨を納めた聖建造物。パーリ語でトゥーパthūpa,中国や日本では窣堵波,卒塔婆(そとば),塔婆,塔,浮図(ふと)などといい,スリランカではダーガバdāgaba(遺骨を納める所を意味するdhātugabbhaの転訛)とも呼ぶ。…

【説一切有部】より

…まだ肉体が存する阿羅漢の境地は肉体的苦痛が存するので不完全とみなし,有余依涅槃と呼び,阿羅漢の死後を完全な涅槃とみて,無余依涅槃と称した。また釈迦(仏陀)は格段に優れた人格者とみなし,一般修行者は決して仏陀の境地には達せず,阿羅漢までしかなれないという思想を有していた。 有部は釈迦の教説を忠実に正確に解釈しようと努めたが,その結果は出家中心主義となり,煩瑣にして膨大な体系は一般人の近づき難いものとなって,大乗仏教の興起をうながしたが,同時代および後のインド仏教に量り知れない大きな影響を与えたのである。…

【祖師】より

…一宗一派の開祖,学統や流派の元祖をいう。日本の仏教では,釈迦は釈迦三尊像などであらわされるように大乗仏教の仏として説かれ,仏教の開祖としての釈迦について教えられることは少なかった。また,仏教が長期にわたって断続的に伝えられたために,宗派性が強調されることが多く,釈迦よりも宗祖や日本仏教の開祖としての聖徳太子が賛仰の対象になることが多かった。…

【肉】より

…《スッタニパータ》《マッジマニカーヤ(中阿含(ちゆうあごん)経)》《ディーガニカーヤ(長阿含(じようあごん)経)》などに,肉身が不浄でいとうべきものであることが詳しく述べられている。頭頂部に烏瑟(うしつ)といって,髻(もとどり)のように肉が盛り上がっているような,常人とは隔絶した三十二相を持つ釈迦の肉身といえども,腐敗の運命を免れない。たいせつなのは心であり法である。…

【バイシャーリー】より

…現在その遺址はガンガー(ガンジス)川を隔てたパトナーの北方約30kmのバサールBasarh村に比定されている。釈迦在世当時(前5~前4世紀)には共和政をしいていた。やがてマガダ国の支配下に属し,グプタ朝に至るまで商業都市として栄えた。…

【腹】より

…ヒンドゥーの神インドラは,通常分娩(ぶんべん)を願う母の願いを拒否してわき腹から生まれ出た(《リグ・ベーダ》)。釈迦は母の摩耶夫人(まやぶにん)が無憂樹の枝を折ろうと右手をあげたときに右のわき腹から生まれた(《今昔物語集》天竺部)。これをまねてか,《神仙伝》は老子が胎内に72年(《芸文類聚》では81年)いた後に,母の左わき腹から生まれたとする説を述べている。…

【不可知論】より

…また,宗教実践上の観点から,さまざまな世界のものごとについての判断は無用である,ないしそのような判断を停止したほうが心の平安が得られるとする考えも有力であった。例えば,〈鰻のようにぬらぬらとしてとらえがたい議論〉を用いたサンジャヤ・ベーラッティプッタ,来世の存在などの形而上学的な問題に答えなかった釈迦などはそうした考えの持主であった。【宮元 啓一】。…

【普賢】より

…《華厳経》には十大願(諸仏を敬わん,など)をたてたこと(普賢行願品),善財童子に自らの過去の修行を述べて彼を激励したこと(入法界品)が述べられ,《法華経》では六牙の白象に乗って法華経の信仰者を守護しにやってくること(普賢勧発品)が述べられている。十大願はいっさいの菩薩の行願を代表するとされ,この意味で行徳の本体とされる彼は,仏の知恵をつかさどる文殊と行動をともにすることが多く,ともに釈迦の脇侍となる。また密教経典には延命の徳も説かれている。…

【仏教医学】より

…元来仏教の成立と,古典医学の体系化とは時代背景が共通しており,原始仏典には病気や医学の比喩が多く見いだされる。また釈迦の時代にジーバカ(耆婆(ぎば))という名医が活躍していたことはあまりにも有名である。医学的記事が最も多く見いだされるのは三蔵のうちの〈律蔵〉であり,出家者の日常生活の規定の一部として医事・薬事が詳しく語られている。…

【仏教文学】より

…それらは用いられた言語よりパーリ語仏教文学とサンスクリット仏教文学とに大別される。 前者の例としては,まず釈迦の生涯の事績を語る仏伝文学があげられる。これは律蔵の〈大品〉や経蔵の《大般涅槃経》などに古いものがみられる。…

【仏足石】より

…足形は左右1対(双足)のものがほとんどであるが,まれには片方(隻足(せきそく))だけのものもある。仏陀(釈迦)が生涯を通じて諸方に遊行し,説法した足跡をとどめる意味から,仏陀の足文を石に刻んだもので,礼拝の対象とされた。インドの初期仏教においては,仏陀の形像を造ることはおそれおおいこととされ,1世紀ころまではその造像は行われなかった。…

【仏陀】より

…〈仏陀〉は多数存在することができ,ジャイナ教の開祖マハービーラもこの名で呼ばれたことがある。しかし一般には,〈仏陀〉といえば釈迦をさす。仏教では仏陀として過去七仏,未来仏としての弥勒仏,過去・現在・未来の三千仏などが考えられるようになった。…

【ベーサカ祭】より

…南方仏教で,釈迦の誕生,成道(じようどう),入滅を祝って行われる祭り。中国や朝鮮,日本などの北伝(大乗)仏教では,釈迦の誕生,成道,入滅はそれぞれ別の日のこととされ,それらの日ごとに祝われる(たとえば,4月8日の降誕会(ごうたんえ)または灌仏会(かんぶつえ),12月8日の成道会(じようどうえ),2月15日の涅槃会(ねはんえ)など)。…

【法輪】より

…仏教で,釈迦の説いた教え(法)を車輪にたとえて呼んだもの。後には,法(仏教)もしくは仏(釈迦)そのものの象徴としても用いられるようになった。…

【ボダイジュ(菩提樹)】より

…ヨーロッパのリンデンlindenと呼ばれるものは,ナツボダイジュT.platyphyllos Scop.とフユボダイジュT.cordata Mill.およびその雑種のセイヨウシナノキTeuropaea L.(英名common linden)をさすといわれる。 釈迦が,その木の下で菩提を成就し,仏となったという菩提樹は,仏教やヒンドゥー教で神聖な木とされている。このインドの本来の菩提樹はインドボダイジュFicus religiosa L.(英名bo tree,bodhi tree)の名で呼ばれるクワ科の常緑広葉樹で,葉は広卵心形で先端は尾状にとがっている。…

【ボードガヤー】より

…インド北東部,ビハール州ガヤー市の南約8km,リラージャーン川(古名〈ナイランジャナー〉,その漢訳名〈尼連禅河〉)の西岸にある釈迦の成道処で,仏教随一の聖地。〈ブッダガヤーBuddhagayā〉,またその音写〈仏陀伽耶〉の名でも知られる。…

【預言(予言)】より

…【山形 孝夫】
[仏教]
 仏教では,ある特定の個人の死後の運命,特に解脱や成仏(じようぶつ)に関して,〈ビヤーカラナ〉と呼ばれる一種の予言が行われた。修行によってある境地に達した人物の死後の運命(解脱するかどうか)について釈迦が予言を与えたことは,〈阿含経(あごんきよう)〉など比較的古い経典にもみられる。一方ある人物が菩薩として転生をかさねながら修学をつむうち,遂には仏となるであろうと諸仏が予言するかたちは,大乗仏教になってから発達した思想である。…

【鹿野苑】より

…古代インド,カーシー国にあった園林で,釈迦が悟りをひらいた後,初めて説法(初転法輪)を行った場所。サンスクリットのムリガダーバMṛgadāva(パーリ語でミガダーヤMigadāya)の漢訳。…

※「釈迦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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