池野村(読み)いけのむら

日本歴史地名大系 「池野村」の解説

池野村
いけのむら

[現在地名]会見町池野

鶴田つるだ村の南、朝鍋あさなべ川上流の枝谷の奥、高塚たかつか山の西麓に位置する。平家落人によって開かれた村との伝説がある。拝領高は九四石余、本免は三ツ六歩。藪役銀一六匁が課せられていた(藩史)。天保三年(一八三二)の山林二六町五反余(同書)幕末の六郡郷村生高竈付では生高一四一石余、竈数二六。「伯耆志」では家数二八・人数一一〇、物産として炭をあげる。明和六年(一七六九)には村困窮のため地内御立山の立木伐採が許され、また安政七年(一八六〇)には練油蝋燭製造願が出されたり、万延元年(一八六〇)には石細工の試みなどもなされている(以上「在方諸事控」)。文久二年(一八六二)従来の出雲街道の西寄りに天万てま村から当地を経て二部にぶ(現溝口町)に向かう新出雲街道が設定され、出雲松江・広瀬両藩主の参勤交代路となった。

池野村
いけのむら

[現在地名]三木市志染町窟屋しじみちよういわや志染町青山しじみちようあおやま三―四丁目

高男寺こうなんじ村の東に位置し、北は志染川を挟んで井上いのうえ村。当地は顕宗天皇の宮所と伝える。「日本書紀」顕宗天皇元年正月一日条の注によれば、一宮小郊おのに、二宮は池野にあるという。「播磨国風土記」の美嚢みなぎ志深しじみ里の条には顕宗天皇が即位後に大和から帰ってきて造った四つの宮のうちの一つに池野宮があげられている。当地がその遺称地とされる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方四〇九石余・畑方九四石余。

池野村
いけのむら

[現在地名]西区玉津町上池たまつちようかみいけ

新方しんぼう村の南に位置する。上之池かみのいけ村ともいう(采邑私記)。初め新方村に含まれたが、正保三年(一六四六)から元禄一五年(一七〇二)の間に分村し、元禄郷帳には「古ハ新方村」と注記して村名がみえ、高一六三石余。明石藩領中里組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると高一七〇石余、東西六〇間・南北五〇間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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